加被害ループから感じあって抜ける場
(集合的トラウマのワークから、感じ・思ったこと)
たとえば縄文~弥生、たとえば明治維新、たとえばアイヌ、たとえば満州南京、たとえば沖縄、たとえば原発、たとえばグローバリゼーション、、、
様々な、暴力、レイプ、収奪、搾取、差別、抑圧、事実上の階級制、構造的暴力、経済的暴力、精神的暴力、スピリチュアルな暴力 があったし、今もある。
それは主観的な体験として、想像し、共有できる。それはグループで行うことで自分だけじゃいけないところまで深くいける(感受性や感応性の高い方がいるおかげで)。それは身体と感情と思考の拡張でもあった。
ショックで感覚がなくなるマヒするシャットダウン。
痛い、つらい、悲しい、哀しい、怒り、自己卑下、自尊心なくなる、無力感・・・
その中で、加害者は被害者でもあり、被害者が加害者になる ということも見えてくる。そしてその中で、感じることさえつらくて遮断・防衛、無関心と無感覚が助長され、さらに次なる暴力連鎖がグルグルまわっている。ということも見えてくる。
しょうがない。どうしようもなく。しかたがない。
命はとじこもる。
しかし、それも生きるためだ。
そういうモードなのだ。
命もがんばってる。
実は、お互いにがんばってる。
実は、お互いにつらい 実は、お互いに罪悪感 実は、お互いに痛い
傷つくことでは共通している
お互いの気持ちを、(カードで)見せ合ってみればどうだろう。
(リストラティブ・ジャスティスがこんな感じだろうか。大事なのは、当事者を包み込むコミュニティと思われる。それは社会の、みなのことであるから。)
そこにはいったんは流れを止めてしまった命がまた少しづつ流れ出す希望がないだろうか
もしそこに扉を開いても大丈夫という愛のフィールドがあれば、いのちの水がまた浸みだし流れださないだろうか。
そこにまた命がつながることで、流れが生まれ、歓びや、力が湧いてくるだろう。
決して急かせないけれど、光は見える。
大事なのは、安心できる 場 だ。深い懐、器、覚悟によって強く支えられた、愛の場だ。
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