見出し画像

『ニュー・アース』省察⑤ ‐ 喪失がもたらす平安とエゴの崩壊

第二章 エゴという間違った自己のメカニズム(最終回)

さて、これまで第二章でまとめて来たエゴの中身と構造、また本来同一化すべき「大いなる存在」との関係を、私なりに一枚の概念図に起こしてみました。

画像1

・外側の物質たる“モノ”や“身体”だろうと、物質ではない“思考”だろうと、すべて『私』が同一化できる【形】になり得る。
・ひとは無自覚のうちに様々な【形】へ同一化をしてしまうが、その同一化はエゴにとってのエサであり、生き永らえるためのエネルギー。
・ひとは、そんな無自覚状態から目を覚まし、この構造と数々のエゴの存在に気づかない限り、永久に「大いなる存在」を知ることも『私は在る』という状態に達することもできない。

・ある人が持っているどんな思考や経験(『私は○○』)、あるいは物理的な持ち物(『私の○○』)を足し合わせても、そのひとの存在そのものを本質的に語ること、説明することはできない。
・形のない「大いなる存在」との懸け橋になるのは、自分の中にある「内なる身体」と呼べる生命エネルギー。

この章の最重要ポイントをまとめると、こんな感じになるのではないでしょうか。

ここで著者は、近代の大哲学者へ強烈なダメ出しを繰り出しています。

まずデカルト。
あの超有名な「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉は間違いだと一刀両断。
著者が明らかにしたこのエゴの構造からすると、「自分が常に考えているという事実は疑いようがない」という時点で、思考と自分自身を同一化していることになってしまいます。
そんな同一化をベースに『私は在る』が証明できる、といわれても…それは違うでしょ、というわけです。

次に、サルトル。
サルトルはこの「われ思う、ゆえにわれ在り」の言葉を吟味するうち、『われ在り』と言っている意識は『われ思う』を実践している意識とは別物だと気付きます。
自分が”思考している”と気付くのは、”思考している”のとは別次元の意識だ、と。

夢を見ている人は、それが夢であるとはなかなか気づきません。
夢だと気づいた時、その人はようやく夢の中で目覚めて、そこに別の次元の意識が流れ込むことができるのです。

ただ、ここまで洞察しても、サルトル自身は依然として自分と思考を同一化していたため、この別次元の意識というものの真の意味に気付かなかったと、ここでもバッサリと断じています。

そしてこの章の最後には、悲劇的な喪失を経験したことから新しい次元の意識に目覚め、喪失による苦悶や恐怖に代わり突然深い安らぎや静謐、完璧な自由を獲得する人々のことが書かれています。

もちろん、大きな喪失を経験したすべての人がその気づきを得られるわけではありません。
多くの人が、自分の不幸や被害者意識、そこから生み出される怒りや恨み、自己憐憫という感情と自分を同一化し、エゴに新しい糧を与えてしまいます。
そしてこの場合のエゴは、得られるエネルギーが強力であるがゆえに、所有によって生きていたレベルのエゴに比べて非常に凝縮された、難攻不落のエゴとなってしまう。

でも…悲劇的な喪失にあった時、そこに抵抗して深い恨みを抱いて苦しい人生を歩むという選択もありますが、逆にその喪失に屈し、あるがままを受け入れるという選択も可能です。
それは、それまで”所有”し自分を同一化させていた【形】が無くなった、という事実をただ受け入れること。
こうなると、エネルギー供給が無くなったそのエゴは崩壊するしかないわけで、そこにはもう『私は在る』という状態しか残っていません。

この状態が、平安をもたらすのです。

この第二章はこんな文章で締めくくられています。

抵抗せずにあるがままを受け入れると、意識の新しい次元が開ける。
そのとき行動が可能か必要であれば、あなたの行動は全体と調和したものとなり、創造的な知性と開かれた心、つまり条件づけられていない意識によって支えられるだろう。
~中略~
どんな行動も不可能ならば、あなたは抵抗の放棄とともに訪れる平安と静謐のうちに安らぐだろう。
それは神のもとでの安らぎである。

…ようやく第二章が完了です。

≪巻頭写真:Photo by Tina Witherspoon on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。