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『ニュー・アース』省察⑧ ‐ スピリチュアルな目覚めとエゴの関係

第三章 エゴを乗り越えるために理解すべきこと(最終回)

「あなたは平和を望みますか?」と聞かれれば、ほとんどの人はYesと答えるでしょう。
でも、それはある一定の条件下でのことかもしれません。

例えば自分が攻撃された、非難された、バカにされた、騙された…といった状況が発生した場合 ‐ 実際には思考がそう判断しただけの場合も含めてですが ‐ どうでしょうか。

自分の中から荒々しい大きな力が盛り上がってきたり、心が防御態勢に入って自己正当化を試みようとしたり、つまり無意識が発動してしまうことを感じ取ったりはしないでしょうか。

なにより、平和よりも自分が正しいことの方が大事と、思わずにいられるでしょうか。

ここで闘おうとしているのは、我々自身ではなくエゴです。
そして、このエゴはただの妄想です。
エゴがサバイバル・モードに入っていたりすると、その力は強大化してしまうので、余計にそれに気づくのが難しくなりますが、必要な要点は全く変わりません。

そのエゴがエゴだと気づくこと。

繰り返しになりますが、気づきによってのみ、我々はエゴから解放されます。
そして気づいた「いま、この瞬間」の知覚によって、「いまに在る」という意識状態に至るのです。

本書では、ここでいきなり
「スピリチュアルな目覚めとは?」
という問いが投げかけられます。
その答えをここに引用します。

スピリチュアルな目覚めとは、自分が知覚し、体験し、考え、感じている対象はつきつめてみれば自分ではないし、つねに移ろう事物のなかに自分自身を発見することはできない、とはっきり見抜くこと

自己という幻想を解体しましょう、あなたがこれまで信じてきた自己とはエゴのことですよ。
起こっている出来事や心の中(=思考)をいくら追っかけても、自分を見失うだけですよ。
幻想の自己を捨てたとき、残るのはただ現れては消える意識の明かりだけ、
そしてこれが「大いなる存在」= 深い真の「私」 ‐…

エゴの底流にあるのは“不安”です。
エゴの行動はすべて、この不安を解消するためのものです。
そんなエゴに気づけるのはエゴを超えた自分、つまり深い真の「私」です。

しかし、エゴは巧妙で、見過ごしがちな形がたくさんあります。
例えば、他人に最新のニュースを知らせようとするとき。
一瞬、相手より多くを知っているという優越感がよぎったりしませんか。

たいていの人にゴシップがもてはやされるのはこれの延長線上だと、本書では説いています。
ゴシップにはさらに、悪意のある批評や批判がセットになっていますね。
自分の方が倫理的に優位に立てるという『思考』は、さらにエゴを強化します。

有名人の名前をさりげなく持ち出してアピールするのも、重要人物との関係を匂わせて自分を偉く見せようというエゴの戦略です。

有名人は、大変です。
近づいてくる人のほとんどが、自分自身のアイデンティティを強化するために、その有名人との関係を利用しようとするわけですから。
そこで欲しがられるのは世間から見たその有名人さんのイメージであって、本人そのものではない。
有名人が、他者との真の人間関係を結びにくいのはそのためです。

そして有名人の側も、同じ過ちを犯すことがあるのは周知のとおりです。
メディアなどが創り出した集団的なフィクションに自分を同一化させてしまい、自分が他と比べて優れていると思い込む。
すると、結果的にますます疎外され、真の人間関係から遠ざかる。

最後に、真の人間関係についての引用をして、第三章を締めたいと思います。

真の人間関係には相手への開かれた明晰な関心の流れがあり、そこでは相手に何も求めてはいない。
この明晰な関心が「いまに在る」ことで、すべての本物の人間関係に必須の要件である。
エゴはいつも何かを求めていて、相手には求めるべきものが何もないと思えばまったく無関心になる。
相手のことはどうでもいいのだ。
だからエゴイスティックな関係にいちばん多い三つの状態とは欲求、欲求の挫折(怒り、恨み、非難、不満)、それに無関心である。

≪巻頭写真:Photo by Samuel Austin on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。