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名古屋STREETDANCE HISTORY6 〜1993年:ダンス世代第一転換期〜

どうもです。UCです。

(これは名古屋STREETDANCE HISTORY企画の目次6です。その他の目次はこちらから確認ください。→名古屋STREETDANCE HISTORY ) 
(2020.05.31追記アリ)

さて、今回は1993年編でございます。
徐々にダンスシーンが広がると共に、ダンサー人口も増えていくわけでして、
いよいよ、全部を紹介しきるのは難しくなってきます。

あくまで、僕が調べられた範囲のことだと思ってください。
そして、
「あんな人もいた、こんなこともあった」
などなどあるとは思いますので、
そうした情報はいつでも募集しております!

よろしくお願いします!
それでは、1993年編、スタートします。

(※文中はすべて敬称略です。ご了承ください。)


はじめに

1993年、この年は次の世代交代に向けて確実に動き出した年と言えます。
この頃から、80年代からNEW SKOOLを牽引してきたダンサーたちが20代中盤〜後半の年齢になっており、
徐々に後進の育成や、ダンサーの環境整備、またはダンス以外の職に就職など、
少しずつプレイヤー以外の割合が増え、
人生の転換期を迎えてきました。
その一方で、
10代〜20代前半のフレッシュで勢いのあるダンサーたちも次々と頭角を現してきます。

こういう世代交代、新陳代謝が行われることは非常に正常なことですよね。

この頃にはバブルもはじけており、
その後「失われた20年」と表現される不景気が日本を覆うわけですが、
そういった時代性は影響したのでしょうか?

私の勝手な推察はやめておくとして、
具体的にこの年に何があったかということをまとめていきたいと思います。

人気チームの世代交代

まず、大きな世代交代として、
当時の名古屋シーンの親分的な存在であった『P.D UNITS』の“SAMU“(現、『ダンスダイナマイト』代表)がプレイヤーとしての勇退を決めます。

そして、
カリスマダンサー“YUKOP”も徐々にNYでの活動が増えていきます。
そこで、この年の『DANCE DYNAMITE』を持って初代『P.D UNITS』の活動を終了とし、
SAMU“は『P.D UNITS』の二代目リーダーに “TAKE“を指名しました。

そして、
TAKE”新リーダーのもとに、
二代目メンバーとして招集がかかったのが、
MIAMI FACE』だった“KOU“(現、『CAKRA DANCE COMPANY』主宰、『STUDIO CAVE』代表)、
そして、
当時はフリーで活動していた”TAKU-G”(現、“魂宮時“/『studio ku〜空〜』代表)
の2人でした。

TAKU-G“は92年編で紹介した『MAKE UP TRIPS』での助っ人活動が終わったあと、
しばらくはフリーで活動しており、
「どうやってダンスで生きていけるか分からず、顔を売るために、ひたすらクラブでよく見る顔のダンサーにバトルを仕掛けていた。」
というバイタリティで動いていたそうです。

当時19歳という若さでの抜擢も、そうした高いバイヴスと個性が目に留まったのではないかと思いますし、
自分自身”を表現することに重きを置く名古屋イズム?PD イズム?(私の勝手な解釈です)ならではの招集だなと感じました。

のちに、
沖縄出身の放浪ダンサー“オニギリ”や、
DJとして『DMC CHAMPIONSHIP』FINALISTの”DJ KENTA“も二代目メンバーとして加入したそうです。
また折に触れ、記します。

そんなわけで、
二代目『P.D UNITS』が結成され、
移行期の半年ほどは初代メンバー”ROCK“(現、『DANCE & Bodywork Studio KBS』代表)も共に活動をしていたとのことです。


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▲2代目『P.D UNITS』×MIKI
(左から、TAKU-G, TAKE, KOU, MIKI, ROCK)

ちなみに、
初代『P.D UNITS』だった“Sax Kitoh”や“DJ Butcher”は、
KING-BOO”(現、『Marble Studio』代表)、
SAKY”(のちの『Mel-O』)、
3DOPE HYPE』(”OZEHAN“, ”SANO“, ”YOCHAN“)
と、 DANCE×RAP×VOCAL×DJ×Saxからなるパフォーマンスユニット、
DA WICKED JAM
を結成し、各ステージで大活躍します。

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▲『DA WICKED JAM』

そして、
91〜92年で全国的に活躍した『MIAMI FACE』は、
予定していた営業イベントをすべて消化したのちに、事実上解散となります。

2代目『MIAMI FACE』の助っ人メンバーだった “SENBA“と”MICHI“は、
テレビ番組で人気が出たが故にやや芸能路線の強かった『MIAMI FACE』の活動よりも、
アンダーグラウンドでの活動の方に魅力を感じ、
自身のチーム『MOVE UP』の活動にチカラを入れていきます。  

そして、
この頃より、同級生の”JUNYA“、
後輩の”AG", “TAKAO”もチームに加入し、
新生『MOVE UP』として、名古屋シーンの新たな顔として活躍します。
(その後、『MIAMI FACE』で活躍していた”YASU“(現、“DELAYAS”)も加入し、6人での活動時期もありました。)

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▲『MOVE UP』+PINO&KENJI
 (上:左から、TAKAO, AG, MICHI, SENBA, PINO
 下:左から、KENJI, JUNYA, YASU)

▲『MOVE UP』(※94年時) 

(全員個性豊かでカッコイイ方ばかりです。
 アップは出来ませんが、貴重なMOVE UPヒストリー動画集でのソロ回しとか圧巻です!)


ダンスコンテストの台頭

そうした世代交代が進む中で、
全国のダンサーに影響を与えたのが、
92年より始まった『OSAKA  DANCE DELIGHT(以下、ODD )』でした!

大阪の『ADHIP』(代表:”マシーン原田”)が仕掛けるストリートダンスコンテストであり、
翌94年から始まる『JAPAN  DANCE DELIGHT(以下、JDD)』は、
2020年現在では世界最大級のストリートダンスコンテストとして、
ダンスシーンになくてはならない大会です。
(『ODD』も現在も続いています。)

そんな『ODD』、『JDD』には名古屋のダンサーも当時から積極的にチャレンジしていました。

そして、この年、
ODD vol.4』にて『MOVE UP』が”準優勝“します!

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▲ODD vol.4 レビュー(提供:ADHIP)

この時は4人(”SENBA“, “MICHI“, “AG“, “TAKAO“)でのチャレンジだったそうです。  

そして、
続く『ODD vol.5』では、
MIAMI FACE』、そして2代目『P.D UNITS』となる“KOU”が、
ダンス甲子園』時代に親交を深めた広島を代表するダンサー“TAKA”(のちの『SKILL NUTS』『BEASTLES』など/現、『広島スタジオFLEX』オーナー)と組み、
KOU+TAKA』で見事”準優勝“します!

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▲ODD vol.5 レビュー(提供:ADHIP)

KOU”はその後も、“TAKA”と、同じく広島出身の“STEZO”(のちの『Mo'Paradise』『S.T.O』)と3人でのユニット活動もしており、
DANCE DYNAMITE』でのゲスト出演もしていました。


そして、
入賞は逃しましたが、92年編でも紹介した ”HITOSHI“(現、『男そば 連獅子』代表)率いる “VOGUE”チーム『マスカレード』もかなり会場を盛り上げたみたいです◎
(最前列にいた審査員長“マシーン原田“に血糊をぶっかけるアクシデントを起こすぶっ飛びパフォーマンスも、伝説的エピソードの1つです。笑)

ちなみに、90年編で紹介した『カラーズ』内の伝説のクラブディスコ『D-PARTS』で行われたコンテストで『マスカレード』が優勝した際も、
かなり奇抜なパフォーマンスで、露出もかなり多く、いわゆる“ポロリ”も男女メンバーともにいとわなかったそうです。笑

そんな彼らのパフォーマンスを、
『ダンスの上手い下手じゃない。会場を1番楽しませ、盛り上げたのは彼らだ。人に伝わることこそ、アートの本質だ!』
と優勝に推したのが“UCOP”だったと言う逸話も残っています。

そんな話題に事欠かない特殊なチームもまた名古屋スタイルだったと言えます。


同じく、入賞はならなかったものの、
92年編でも紹介した豊橋で活動するダンサー “KATSU“, “SHUICHI(現、『QUARK』代表)“, ”NAKAJIMA“らが率いる『Free Style』も、
YASU”(のちの『FOOT  ILLUSION』, 『ESSENCE OF LIFE』)をメンバーに加え、
ODD』には『JIMMY』というチーム名で出場していました。

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▲Free Style(出演イベントのフライヤー)


そんな先輩たちの活躍を見ていた後輩たちも自らコンテスト出場へと動き出します。
91年編で紹介した練習場所“テレビ塔下“に集まっていた当時の高校生メンバーで、
J&J』というチームが結成されました。
(名前の由来はジャイアン&ジャイ子だそうです笑)

メンバーは、
PINO“(のちの『PINOCCHIO』『ALMA』『ZENITH』など)、
RYO-Z“(のちの『Hi-Problem Chld』『FIVESTAR』『BUSH BABEEZ』など)、
KENJI"(のちの『PINOCCHIO』『UNIVERSE』など/現、『CLOVER ダンス塾&STUDIO』代表)、
CHITOSE”(のちの『NAGOYA SOUL SISTERS』『ユテライツ』『ASTONISH』『龍五娘』など)、
KUMAZAKI”(のちの『PLAYS』『HIPHOP CORN』など)、
TOMOKAZU”(のちの『PINOCCHIO』『C-HAIS』『FIVESTAR』など)
の6人です!
(いや、とんでもない夢のチームですね!)

結果は出なかったそうですが、
間違いなく今後の東海シーンを牛耳る、まさに(カッコイイ)ジャイアンとジャイ子たちがこの頃から育ち始めていたんですね。

ちなみに、
ODD』には出ていなかったものの、
IZUMI“(現、”維月見”/ のちの『NAGOYA SOUL SISTERS』『TEASE』など)は当時、高校の同級生と『Nevers』というチームを組んでおり、 ”YUKOP“のダンスに衝撃を受け、『P.D UNITS』のshowを追っかけのように観まくり、
フィメイルカリスマダンサーとしての道を歩み始めていました。

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▲”テレビ塔下”メンバー
(KENJI(白cap×白T), RYO-Z(黄T), RYO(黒×白), IZUMI(センター), MIKI(オレンジ×青), CHITOSE(赤×白T), MIKIMAMA(白T×グラサン), PINO(黒白ストライプ), KUMA(最前列黒T)



そんな1993年、
その当時、高校1〜3年生だった、
PINO”、“KENJI”、“TOMOKAZU
の3人で、名古屋が世界に誇ることになるダンスチーム『PINOCCHIO』が結成されます!
語り出せばキリのない『PINOCCHIO』の快進撃についてはまた年を追って紹介していきます。

名古屋HOUSEが深まる流れ

ちなみに、
当時は『MOVE UP』も『PINOCCHIO』も、
HIPHOPとHOUSEの両刀使いでした。
しかし、その後は徐々にHOUSEにのめり込む人と、HIPHOPを貫き通す人に分かれていきます。

92年編で紹介した通り"UCOP”と”TAKE”がHOUSEを名古屋に持ち込み、
UCOP“は本場NYシーンでも居場所を作り始めます。
この年、“UCOP”に連れられて、NYに初渡米したのが、“SENBA”, “MICHI”, “YASU”でした。
YASU”や”MICHI“がクラブで踊るHOUSEオリジネーターたちに感激してガン見をしていると、
UCOP“は、”YASU“らを正座させ、
「お前らダサすぎる。傍観する為に連れてきたんじゃない。オリジネーターに負けてないで、サークルの輪っかに入って対等にカマしてこい!」
と泣きながら説教したそうです笑
強すぎますね!

名古屋の田舎者でも、同じダンサーとしてのプライドは捨てるなと。
カッコよすぎです!笑  

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▲NYにて。
(左から、MICHI, YASU, EJOE, MASAMI, Caleaf
 下:SENBA)

翌年には、
SENBA“, ”MICHI“, ”JUNYA“, ”AG“, ”TAKAO“の『MOVE UP』メンバーに加え、『PINOCCHIO』の”KENJI“も、
YUKOP“に連れられてNYを訪れたそうです。

先ほどの『マスカレード』でのエピソードもそうですが、
UCOP“は面倒見も良く、主張もハッキリしており、残された伝説が本当に多いですね。
まだまだあるので、今後も紹介していきます!

ダンスダイナマイトの変革

さて、
91年より開始し、名古屋ダンスシーンの勢いを象徴するイベントとなった『DANCE DYNAMITE』ですが、
この年より”春選考会“、”夏本選“のカタチが定着しだします。

これまでの主催者によるオファー形式から、
春の選考会を勝ち抜いたチームが、夏の本選ステージに立てるという形式に変わりました。

そして、
本選のステージとなったのが、
92年にオープンした『DIAMOND HALL』でした!

当時は『DIAMOND HALL』にダンサーが出演する機会は皆無に等しい状態であり、
DANCE DYNAMITE』の予選を勝ち抜いて、『DIAMOND HALL』でSHOWをするということが名古屋のダンスチームにとってのステータスとなる時代がしばらく続きます。

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▲PARTY, P.D UNITS, MIAMI FACE, MOVE UPメンバーら

ちなみにこの年の春選考会は、
名古屋市港区の『JETTY』で開催されましたが、いくつかのドラマがあったそうです。

まず、
既に解散状態だった『MIAMI FACE』が、
同世代の『MOVE UP』の活躍に触発され、
92年編で紹介した『PARTY』でデビューしていた ”KENGO“, ”DENZO“が急きょ名古屋に戻り、
初代『MIAMI FACE』メンバー5人で登場したそうです!
会場は大盛り上がりだったそうです◎
そして、『MIAMI FACE』, 『MOVE UP』ともに予選通過!
良いライバル関係ですね(^^)

そして、
プロローグ編で紹介した静岡の”RYO“(のちの『舞志道BBOY CREW』)も参戦しました。
RYO”は、92年より名古屋から地元の熱海に拠点を戻しており、
そこから後輩メンバーを引き連れて予選に参戦したそうです。
そこにいたメンバーに、
オニギリ“(のちの『P.D UNITS』)や、
HIRO“(現、『ALMA』『DANCE FUSION』など)
などがいました!

ここで、当時高校生世代だった愛知の“KENJI”, “PINO“と静岡の“HIRO”という、
のちに名実ともに世界一となるHOUSEダンサーたちの出逢いがあったわけです。
こうした出逢いがまた、それぞれのダンス観を深める繋がりになっていったことでしょう。

また、
YOHEI”(のちの『来い!』オーガナイザー), “IMAYAN”からなる『うずず』も、
当時では数少ない“POP“を基調としたオールドスタイルのチームであり、
数年連続で『DANCE DYNAMITE』本選進出を果たすなど活躍していたチームも存在していました。

次世代への働きかけ


さて、
勇退を決めた”SAMU“(以後、”倉田サム“)は、
ダンスダイナマイト』としてのイベント主催・プロデュース、仲介、斡旋などに力を入れ、
また後進の育成にチカラを入れるなど、
名古屋でダンサーが輝ける環境をさらに増やそうと尽力します。

そんな”倉田サム“の生徒の中から、
IKUMI“(現、『DANCE STUDIO FORCE』代表・KITOHの妻)
SHIHO“(のちの『HYZKETZ』)
macchan
YURI
の4人からなる『BLACK BEANZ』なども結成されました。

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▲BLACK BEANZ
(左の写真/上:左から IKUMI, SHIHO, YURI、下:Macchan)


また、この年は『名古屋セントラルパーク』の15周年の年であり、
その15周年記念イベントに於いて、
倉田サム“は、”KING-BOO“とともに
NEEDLES』という名古屋初の”KIDSダンスユニット“をプロデュースし、
そのステージを成功させます。

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▲NEEDLES(オーディションを勝ち抜いたダンサーたち)

KIDS  DANCEの先駆けとなったと言っても過言ではないこの『NEEDLES』ですが、
ここからさらに選抜されたメンバーたちが、
翌年、さらなる活躍を見せます!
詳細は次編で記します。

またこの頃より、
三河地区にJAZZのダンススタジオとして85年にオープンしていた『BT STUDIO』にも、
AKIRA“や『2TIGHT』などがストリートダンスレッスンクラスを持つようになり、
ソウルダンスを中心にストリートダンスを伝えていたそうです。

92年編で紹介した『CELEZOORATION』を結成していた『STUDIO  ZOO』にも、
KOU”がインストラクターとして入り、ストリート色も混ざっていくようになります。
ここでの“KOU”と“ANN”の出逢いものちのチーム活動などに拡がっていきます。

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▲左から“KITOH”, “ANN”, 真ん中下:“イタ”(のちの『UNIVERSE』, 女性:”MISA“)

このようにストリートダンスを伝えるスタジオも徐々に出てきており、
そこからダンスを始める者も徐々に増えていきます。

練習場所や人気クラブの変遷

そして、
以前、1991年編で練習場所のメッカとして紹介したのは”テレビ塔下”でしたが、
この頃にはテレビ塔再開発の為に使えなくなったので、
みんなの集まる練習場所が名古屋市中区の若宮大通り沿いにある“若宮高架下”へと変わりました。

ここで『MOVE UP』の“SENBA”がストリートレッスンを始め、
そこから徐々にストリートレッスンのメッカとしても定着していったようです。
(当時のストリートレッスンはいわゆる縄張りみたいなものもあり、誰でも始められたわけではなかったそうです。)

そして、
当時の人気クラブは、
91年編で紹介した『UPPER』のほかに、
住吉の『Meme(ミーム)』、
新栄の『A-CLUB』、
錦の『UNPLUGGED』『BAD YARD』『JUNK
などがあり、
さらにクラブブームの火付け役となったのが、
DJ SUKU“(現、『the empolium』レジデント)のプロデュースにより92年8月にオープンした
丸美観光ビルの『THE UNDERGROUND』でした!  

※『THE UNDERGROUND』から『Atlantic Bar』となり、
その後、『LUSH the underground』『CIPHER the underground』となり、
閉店後、跡地に『eight nagoya』と『FLEX LOUNGE』(2019年閉店)ができました。


そんな丸美観光ビルこそ”名古屋HIPHOPの聖地“として、
JB’s』, 『LUSH the underground』『CIPHER the underground』,『SOULGROUND』, 『domina』『TIGHTROPE
などのクラブ・ライブハウス・バーがひとつのビルにひしめきあい、
常に、そして現在も、クラブシーンを牽引し、
多くのアーティストを輩出してきた場所です。
もちろん、当時からダンサーにも大人気だったそうです!


当時は、ダンサー主催のクラブイベントはまだ少なかった時代でしたが、
JUNJUN”(現、『pineapple studio』代表)は弱冠20歳の92年にイベント主催を始めていました。
JUNJUN“は『AIR CREW』というチームで当時では数少ないPOPPERとして活動していましたが、
91年より、“DJ Butcher“, “DJ MITSU“(現、『Nobody Knows+』)と、
Roots of Underground』というレコーディングスタジオをやっており、
かなり早い時期からプレイヤーと並行して、いわゆる“裏方“にも興味を持っていた希少な存在でした。

そして、こうした“プレイヤー以外“の要素にも魅力を見出していく”ダンサー“の存在も、
ダンスシーンを広げ、形成していく上で、
大きく影響したことは間違いないでしょう。

そんなこんなで、
徐々に歴史に名を刻まれるダンサーイベントが増えていきます。
どう進んでいくのか、以後、お楽しみに…。

というわけで、
1993年の1年も、様々なことが動いた1年でしたね。

次回!
1994年!(名古屋の人気チーム『1994』メンバーが生まれた年ですね笑)
さらに名古屋ダンスシーン情勢が変わっていきます!!

まとめ

80年代後半〜90年頭にシーンを引っ張ってきたダンサーたちの人生のフェーズが変わり、
さらにNEW SKOOLがHIPHOPとHOUSEで分かれつつ、
さらに新しい世代のダンサーが自立しだした1年だった。

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