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相互理解は卑屈な従順だけから生まれるわけではない。


どうもです。

ひっそり始めて、ひっそり続けている歴史シリーズですが、
いよいよ第10弾です。

だからって何があるわけじゃないですが笑
今回も今回とて、少しマニアックな歴史を掘り下げてみたいと思います。


【本日のお言葉】


相互理解は卑屈な従順だけから生まれるわけではない。
by吉川猛夫


吉川猛夫”は、日本の元海軍少尉であり、
1941年12月7日(現地時間)の『真珠湾攻撃』に際して、
日本からハワイに送り込まれたスパイでした。

真珠湾攻撃』とは、
日本海軍がハワイにあったアメリカ海軍基地に奇襲を仕掛け、
太平洋戦争の日米開戦のきっかけとなった出来事ですが、
この奇襲成功の鍵を人知れず握っていたのが、この“吉川猛夫”でした。

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▲真珠湾攻撃をする日本航空機(Wikipediaより)

彼は自分自身を、
この日に向かって青春の火を燃やし続けた1人の男
と振り返っており、スパイ活動についても、
誰よりも職務に忠実だっただけ
と評しています。

そんな彼の人生や想いを簡単に掘り下げてみたいと思います。


真珠湾攻撃以前の日本と世界情勢



その前に、当時の時代背景を簡単にまとめておきます。

1931年に“大日本帝国(日本)陸軍“が中国の東北地域である満州で『満州事変』を起こし、
1932年に、日本は『満州国』成立を宣言しました。
しかし、『国際連盟』で『満州国』不承認の報告書が採択されると、
1933年に日本はそれを不服として『国際連盟』を脱退しました。

そして、
“日本陸軍“は、『満州国』から南下し、中国の華北五省への侵略も計画するようとなり、
日本と中国の関係はどんどん悪化していきます。
そのまま、
1937年に日本と中国の紛争勃発となる『支那事変』が起きました。

このように、
当時の日本陸軍は、中国大陸で“侵略”ともとれる行動を続けており、
アメリカをはじめ、国際的にも非難を浴びていました。

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▲1940年時の日本軍占領地域(赤色部分)(Wikipediaより)


一方で、日本は、
1938年に『東亜新秩序』、
1940年には『大東亜共栄圏』なるスローガンを掲げ、
日本のアジア進出を正当化していきます。

これは、
欧米が行っているアジア諸国の植民地支配にかわって、
日本を中心として東アジアの諸民族による共存共栄を樹立する。
としたもので、
欧米諸国の植民地支配に苦しむアジア諸国からは好意的に迎えられた側面もありました。

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▲大東亜会議に参加した各国首脳(中央・東條英機)(Wikipediaより)


このような状況の中、
日本とアメリカの関係ももちろん悪化していきました。

1937年、アメリカの“フランクリン・ルーズベルト“大統領より、「日本は侵略国」と言われ、
1939年には『日米通商航海条約』が廃棄されました。
1940年、前述の『大東亜共栄圏』の一環として、日本は“フランス領インドシナ“(現在のベトナム、カンボジア、ラオス)北部へと進駐していきました。
そして、
9月には『日独伊三国同盟』を締結しました。
このことが日本とアメリカの関係を決定的に悪化させました。

吉川猛夫のスパイ活動開始


このように日米関係が悪化していく中、
ハワイにスパイとして派遣されたのが今回の主役“吉川猛夫”でした。

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▲吉川猛夫(https://www.usni.org/people/takeo-yoshikawa)

吉川猛夫”は、1912年愛媛県生まれ。
海軍学校を卒業したのち、軍令部第三部第八課(イギリス担当)に所属し、
英国関係の軍事情報を収集する仕事につき、
軍令部屈指の欧米通」と呼ばれるまでになりました。

そんな彼は、
1940年、所属とは別の軍令部第三部第五課(アメリカ担当)からハワイに行くように命じられました。

任務としては、
ホノルル総領事館で偽の外務省員としてハワイに滞在すること。
そこで、
アメリカ軍の情報を日本に報告すること。(具体的には、艦船・航空機の移動とその任務を探知すること。)
でした。


海外派遣でのスパイ活動はいくつもの困難が伴います。
もし現地で失敗があれば、身の上の危険があるばかりでなく、“日本政府の不名誉”となり、
国際信義の上に成り立つ外交関係にも大きな障害を及ぼすリスクの大きな危険ミッションであり、
また、
組織ぐるみだと芋づる式に捕まってしまうため、単独行動での活動が基本となり、
外務省(日本総領事館)でも、“吉川猛夫“の身分については1〜2人しか知らないため、
身内にも気づかれないようにしないといけない。
という極秘ミッションでもありました。


そんな任務を前に、”吉川猛夫“は、
「私を買ってくれた、上官のおめがねにかなった光栄に奮起すべきだ。
 士は己を知る者のために死す
 そして君国に奉仕するこそ軍人の天職だ。」
と自らを奮い立たせて、何事に対しても慎重に構えたそうです。


「お国のために」の根っからの軍人気質だったのでしょうか。
今の時代では受け入れられ難い価値観かもしれませんが、
そうした人がどういう心持ちで戦争と向かい合ったのか。
想像することは大事な気がしますね。


スパイ活動の始まり


さて、
ハワイ行きの命を受けた翌年である、
1941年3月、”吉川猛夫“は遂にハワイへと赴きます。
28歳の時でした。

吉川猛夫”は、
ハワイでは、”森村正“という偽名で活動することとなり、
洋服も下着もスーツケースも一切のものを新調し、
偽名のパスポートとビザを取得し、
活動費用としての600ドル(現在の価値で約700〜900万円)を隠し持って、
軍人ではなく、外務省の役人として、
単身ハワイへと赴きました。

ハワイのホノルルにある日本総領事館では、
総領事である“喜多長雄”のみが“吉川猛夫”の正体を知っていました。

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▲喜多長雄(https://turtledove.fandom.com/wiki/Nagao_Kita)

総領事の名前で本省(日本)宛に暗号電報を打つことは国際法上許されていたので、
軍人である“吉川猛夫“が調査した情報を外務省に委託し、”喜多長雄“の名で電報を打つという流れだったのです。


ということで、
吉川猛夫“改め、”森村正“は、
”喜多長雄“総領事から、表向きの外務省の仕事を与えられ、
周りにはその仕事をしているように見せかけながら、
仕事以外の時間に、さも観光を装いながら、ハワイの情報収集を始めました。

しかし、
日本人がアメリカ軍基地のある真珠湾付近などをウロウロしていると、
FBIはじめ、軍の番兵などに怪しまれるため、
吉川猛夫“は、日系二世、三世の現地人の力を借りながら情報収集していきます。
(現地の日系人はもちろんスパイ活動とは知らずに現地の紹介をしているだけです。)

欲しい情報は、
ハワイの真珠湾に今どのくらいの兵力(当時は海軍の戦艦重巡洋艦軽巡洋艦航空母艦(空母)、空軍の戦闘機、陸軍の師団)があるのか、
それらがいつどのくらい真珠湾に集結して、どのような動きをしているのか、
現地にどんな施設があって、拡張中のものがあればその進捗状況はどのくらいなのか、
実際に目で見て確認しなければいけないことばかりでした。

それを“吉川猛夫”は怪しまれないよう、メモもカメラも使わず、
見たもの聞いたものを頭に叩き込みながら、家に帰ってから資料をまとめるという離れ業で進めていったそうです。


スパイ活動の成果


そんな”吉川猛夫“のスパイ活動はとにかく足で稼ぐものでした。
昼の仕事を終えると、真珠湾のあるオアフ島を島巡りすることに専念し、
夜は夜でダウンタウンに出て、飲みに来ている水兵と一般人を装って酒を飲む。
など、地道に情報収集をしていたそうです。

そんな中、
日系人が営む『春潮楼』という料亭を紹介されます。
ここの2階座敷から真珠湾が一望できたのでした。
戦闘機のいる飛行場までバッチリ見えたそうです。
吉川猛夫“はこの絶好の場所に足繁く通うよりになり、
さらには艦隊の真珠湾出入港が早朝と夕方に多いということがわかると、
芸者やメイドに惚れ込んでうつつを抜かす風を装いながら、
春潮楼』に泊まり込むこともしばしばあったそうです。
周りから何をしているのか分からず不思議がられていたそうです。

そんな毎日を送りながら、
徐々に艦隊の名前や数が一致するようになった5月から東京へ電報を入れるようになります。

その頃は、
吉川猛夫“自身は日本が真珠湾を攻撃するつもりなどさらさらなく、
むしろ、アメリカが臨戦準備を行なって、
日本もしくは日本が侵略しようとしていたアジア南方に進撃する時にその第一報を打つということが自身への指令だと思っていたようです。


日本、対米戦を辞せず


というのも、
吉川猛夫“がハワイ入りする1ヶ月前、
1941年2月から和平を探るために政府間(野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官)での日米交渉が始まっていました。

しかし、
和平交渉は中々うまくいかず、
日本は7月2日に、「対英米戦を辞せず、“フランス領インドシナ“南部にも進駐する」という計画を進めました。

この動きにさらに反発したアメリカは、
7月26日には在米日本資産の凍結
8月には対日石油全面禁輸、
といった報復措置を行いました。
(イギリス、オランダ、中国もそれに続き、いわゆる『ABCD包囲網』が完成します。)

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▲ABCD包囲網(https://heiwa.yomitan.jp/4/3264.html)

日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、
このような措置が行われると非常に厳しくジリ貧になってしまうということで、
石油がなくなる前に産油地帯である“オランダ領インド“(現インドネシア)を攻略するという選択肢が台頭しだします。
その場合、資源の輸送ルートも考慮すると、
当時アメリカ領だった”フィリピン”および”グアム”の攻略も不可欠となるため、
それは必然的に対米開戦ということが予測できました。

日本国内にはアメリカを対戦相手にすることは避けた方がいいという非戦派と、
上記のように、アメリカとの対戦も辞さない開戦派で意見は分かれていたようですが、
南進策の意見が徐々に軍令部で広がり、
さらに国民的世論まで開戦派に傾いていったそうです。

そして、
9月6日の御前会議で、
10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ開戦の決意をする。
と決定されていました。


そんな日本の情勢を詳しく知らされないまま、
吉川猛夫”は真珠湾の動向を日本に報告し続けていました。

相変わらず観光を装いながら島巡りを続け、
春潮楼の芸者などをデートに誘い、
海底が覗ける遊覧船から海の地形を探ったり、
遊覧飛行を繰り返しては島を上空から眺めたり、
月夜に海岸で夜を明かすという流行りのムーンライトピクニックに遊びに行き、実際に海に潜って地形を探索したりと、
人知れず視察を繰り返しては、
東京に情報を送っていました。


ある時には、
ホノルル市に日本人の素人天文学者がいて、
30年に渡り流星を観測しているということを聞きつけ、
彼を訪ねていき、話を聞いていると、
ハワイには30年来、暴風雨が一度もなく、オアフ島を東西に走る山脈の北はいつも曇りで、南は晴れだ。
ということを教えてもらえたそうです。

その後に、
日本から「ハワイの気象条件はいかに」と問い合わせが来て、
吉川猛夫”は本当に海軍がハワイ真珠湾を狙ってくるのではないかと勘づいたそうです。

そこで彼はこう報告しました。
「ハワイには、30年来暴風雨なし。オアフ島の北側は曇天多し。北側より接近し、ヌアヌ・パリを通れば、急降下爆撃可能なり。

このことからも、
吉川猛夫”からの情報が真珠湾攻撃を計画するにあたって非常に有用なものになったということがうかがえます。
他に、艦隊のスケジュールを探り、どんな艦船が何時に出港し何時に帰港するか。
湾に艦船が最も多く集まる曜日がいつかなど、
次第に具体的となった“吉川猛夫”からのスパイ情報から、
攻撃スケジュールも攻撃経路も綿密に組み立てられていったのでした。

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▲真珠湾攻撃の際の日本軍飛行行動図(Wikipediaより)

詳細は知らされないものの現地で“その時“が近いのではないかと感じさせられた“吉川猛夫“は、
身の回りの整理を始めました。

スパイ活動で得た資料を焼き、
ツケ払いにしていた料亭などに料金を支払ってまわり、
いつも通り視察を行うと東京へ電報を打ちました。
空母2隻は出港せり


これが“吉川猛夫”が打った最後の電報になったわけですが、
この電報を受け取った東京軍令部が、
実際に攻撃に出ていた機動部隊に転送したのが、
奇襲開始の3時間前だったそうです。
(空母2隻が無傷となったのは、日本にとっては痛手でした。)

吉川猛夫”がスパイ活動中の9ヶ月間で打った電報が177通でした。


真珠湾攻撃決行


そして、
運命の12月7日朝(日本時間8日)
吉川猛夫”がホノルルの日本総領事館の寮で朝食を食べていたその時、
遂に日本軍はハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けました。
もちろん、日本総領事館の誰も知らされていないことでした。


この奇襲で、日本軍はアメリカ軍に、
戦艦4隻沈没、戦艦1隻座礁、戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷、駆逐艦3隻座礁、etc
航空機損失188機、航空機損傷159機
戦死2,334名、民間人死亡68名
の大被害をもたらし、
日本軍の攻撃は成功となりました。

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▲真珠湾攻撃の様子(Wikipediaより)


知らされていないとは言え、
吉川猛夫“のスパイ活動が実った瞬間であり、
突然の奇襲に驚きながらも、
喜多長雄”総領事と“吉川猛夫”は手を取り合って「とうとうやったね。」と日本軍を応援したそうです。


すごい感覚ですね。
国同士の戦争が起こった瞬間に、敵側の土地にいるという存在の心の持ちようってこれが自然なんでしょうかね。。


とにもかくにも、
日本軍がアメリカ軍基地に攻撃を仕掛けたわけですから、
日米での戦争が始まったということです。


アメリカの警察がすぐに日本総領事館に踏み込んできて、
吉川猛夫”たちは軟禁されます。
軟禁生活はそのまま続き、
年も越し、1942年1月中旬に、“吉川猛夫“たちはアメリカ本土へと移送されます。

そして、
FBIからの尋問が始まりました。
FBIはどうやらハワイで全島を隈なく歩き回っている男が総領事館にいるというところまでは突き止めたものの、それ以上の証拠を見つけられずにいました。

そして、
吉川猛夫”がスパイだと知っていたのは本人と“喜多長雄”総領事だけ。
結局2人が口を割らなければ誰も分からないわけで、執拗な尋問を乗り越え、
結局ハワイで島中を歩き回っていた怪しい男が誰だったのか突き止められないまま、
1942年8月、遂に“吉川猛夫“は日本に帰国しました。

その頃には、
日本の戦況はすでに悪く、
6月の“ミッドウェイ作戦“での敗戦は今後の流れを決定づけるものでもありました。


軍令部の復帰とジレンマ


帰国後の“吉川猛夫”は、
軍令部に復帰し、主にアメリカ捕虜兵の尋問などを担当しました。
そして、
軍令部の仕事をこなしつつも地元愛媛でお見合いをし、
結婚し、終戦間近には第一子も授かりました。


しかし、
日本の戦況はどんどん悪くなり、
その状況を隠そうとする大本営報道部との折り合いが悪くなっていきます。

軟禁生活中に、
「この千載一遇の戦争に協力するために、一日も早く帰国したい。」
と思うほどに軍人としての使命感の強い“吉川猛夫”としては、
「なぜ真珠湾攻撃の際に第一撃を加えただけで日本軍は去ったのか?」
反復攻撃を行なって、ハワイを占領して、現地の30万人のアメリカ人を人質に抗戦すれば今とは違った戦況になったはず。」
という想いがどうしても拭いされず、
参謀にその想いをぶつけたりしていました。

自分が命懸けでハワイ中の船腹を調査していたのが、
単発の奇襲のみで終わってしまったジレンマがあったのでしょう。

参謀はこう返します。
「確かに反復攻撃の機会はあったかもしれないが、それは指揮官の考えで、他の者があとからあれこれ語るべきではない。」

上位下達の世界ですね。
それでも、
地位が低くとも思いの丈をぶつけられる純真さがある“吉川猛夫”は当時でも珍しい部類の人間だったかもしれません。

もちろん、現実的に30万人の人質を養う食糧や反復攻撃を行う為の武器・弾薬の補給方法など足りないものだらけだったという現状もありましたが。

結局、
大本営報道部との溝は埋まらないまま、“吉川猛夫“は軍令部を去ることとなりました。
そして、終戦まで自宅に引きこもりました。

そのまま1945年8月、
日本の敗戦で太平洋戦争は終結しました。


戦後の逃亡生活とGHQ訪問


終戦後、
妻と子を田舎に帰省させたのち、
吉川猛夫”はヤミ屋を開業し、金を稼ぎます。

しかし、
戦犯狩りが始まると、次々と軍人が捕まりだします。
軍令部も“捕虜虐待”の罪状で次々と捕らえられます。
その流れに身の危険を感じた“吉川猛夫”は、
逃げることを決意し、出家します。

そのまま4年が過ぎ、GHQ側の戦犯処刑がひと段落した頃、
出家先と実家の愛媛を行き来するようになるも、
最後まで捕まることはありませんでした。


そして、
戦後6年経った1951年、『サンフランシスコ平和条約』調印を持って日本の主権は回復しました。
時を同じくして、GHQ側はついに“吉川猛夫”が“森村正”としてハワイにいたことを突き止め、
吉川猛夫”に「戦史研究のための協力」を要請してきました。

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▲サンフランシスコ平和条約の調印(Wikipediaより)

吉川猛夫”は要請に応じて、
GHQで自分の知る限りの情報を提供しました。
真珠湾での艦艇数や動向を調べたこと、料亭『春潮楼』を拠点にしたこと。
そして、スパイ活動はたった1人で行い、ハワイ在住の日系人は全く関係していないことを特に強調しました。

アメリカではハワイで捕らえられた日系人が、アメリカ国籍であっても仕事を解雇されたり収容所に送られたりと憂き目を見ていたことを知り、
彼らの誤解を正したいと強く思っていたそうです。

吉川猛夫”は、
日本人の執念を正しく理解してもらいたかった。
日米の相互理解は卑屈な従順だけから生まれるものではないことをアメリカ人にしってもらいたかった。
と回想しています。

ブレない精神力を感じますね。
強い忠誠心、勇気ある行動力、やり抜く精神力、
見習うべきところも多いですし、
それをどの思想でどう使うかがやっぱり大切ですね。


ちなみに、
このGHQ訪問は秘密裏で行われており、
吉川猛夫”はその後も世間で真珠湾攻撃について語ることなく隠居していました。
周りに迷惑をかけるのがしのびないという理由でした。
そして、さらに10年後、
1961年になり、雑誌やテレビからのインタビュー、ドキュメンタリーの依頼が届くようになり、
ようやくメディアの前で自身の活動を振り返ることとなりました。

吉川猛夫”は言います。
「私は今でもザンゲする気持ちは微塵もない。」
「私は単に、歴史という巨大装置の一つの小さな歯車でしかなかった。
 しかし、私は誰よりも職務に忠実だったつもりだ。」

もう良いことをしたとも、悪いことをしたともなく、
それを超えた“職務の全う”に重きを置いていた軍人としての価値観。
子孫に残す唯一の遺産としても、
「子どもたちよ、父のように職務に忠実であってくれ。」
と述べています。

後世の僕らは何を教訓にすると良いのでしょうか。


おまけ


真珠湾攻撃によって日米開戦となってしまい、
第二次世界大戦はさらなる悲惨な状況へと突き進んだわけですが、
これは止められなかったのでしょうか?

ハル・ノート』からの“真珠湾攻撃”までの経緯に関しては、
今でも研究が進められており、様々な通説が飛び交っています。
この辺の検証についても面白いので、
また興味ある方は色々掘ってみてください。

真相はヤミの中な部分も多いですが。


結局、
戦争とは本当に知れば知るほど、
よくわからないものですね。
国益のため、金儲けのため、利権や面子の維持のため、
そんなことのために国民を煽動して国どうしで争う。

やはり理解に苦しみますね。
国とは何なんでしょうか?


“吉川猛夫”は軟禁中に、
アメリカの広大な土地を移動しながら、
こんなことを思っています。

『アメリカ大陸の内部には利用されずに残されている遊閑地が見渡す限りの広さで南部にも北部にも西部にもいくらでもある。
何を好んで東洋の僻地の猫の額ほどの島国との抗争にあくせくするのか。
日本が多少の資源を南方や満州に求めることがなんでアメリカの機嫌を損ねたのか。
今度の戦争の原因も究極するところ、アメリカよ、お前の無理解と、日本が東アジアにおいて中心勢力となることに対するヤッカミではなかったのか。
アメリカの指導者諸君よ、諸君が世界を支配する夢を捨てない限り、戦争はこれからも続くと覚悟せよ。
世界を五大ブロックに分けて、それぞれの地域の国家群が繁栄するよう指導するのがアメリカの役目ではないのか?』

日本のいち軍人からの目線なので、
かなり偏っているなと思いますが、
何にせよ感じたことは、どっちもどっちですね。
日本もアメリカも思い上がっていたんだなぁと思えます。
引くに引けなかったのでしょうか。
自分たちの資源や利権の為に、外の土地に向かうことの理不尽さを完全に無視して、
どちらかだけに悪を押し付けられるものではないですね。
これは中国にしてもソ連(ロシア)にしても同じです。
それぞれが勝手な解釈と正当化の理由で強行突破してきた歴史はいたるところで繰り返されてきているように思います。

理不尽なことが現代までまかり通り続けている歴史ですが、
現在そして未来に生きる僕らは、今からでも反省し学べるというところが1番の強みなわけですから、
例えスケールが違っても、日常生活レベルから自分自身を鑑みながらキチンと生きていきたいですね。

そして、
いつの時代も勢いのある国が世界をリードをし、良くも悪くも流れを生み出す部分はあるかと思います。
今後チカラをつけてくるインドやアフリカ諸国が今までと同じような道を辿らないようにしてほしいですね。


ではでは。

【参考図書】
「私は真珠湾のスパイだった。」吉川猛夫(毎日ワンズ)

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