日曜日のクルーメイト #0079 Hyuuu Doro Doro!!
ハロー、クルーメイト。いかがお過ごしでしょうか?
冲方は、夏の風物詩である「幽霊」を、駆け込みで取材。
心霊スポットなどではなく、「幽霊画」、名所、怪談など、日本ならではのホラー風物詩を楽しく勉強して参りました。
徐々に秋めくかと思いきや、すこぶる残暑の日曜日、今週も元気に参りましょう!
今週の宣伝!
ホラー風物詩の取材レポートの前に、今週の宣伝を。
SFマガジン 2022年10月号
『マルドゥック・アノニマス』第44話掲載!
オール讀物 2022年9・10月合併号
『剣樹抄』第17話掲載!
先週に引き続き、雑誌連載のお知らせでした。
今月からは、徐々に公開できる情報が増える予定。
ぜひお楽しみに!
夏の幽霊祭り
というわけで幽霊取材のレポートをご紹介!
まずは全生庵の「幽霊画展」に行って参りました。
全生庵は、拙著『麒麟児』でもご登場頂きました山岡鉄舟ゆかりの寺でありますが、幕末・明治の落語家であった三遊亭円朝もここに弔われ、彼が所蔵していた幽霊画も寺に寄贈されたとのこと。
一説では三遊亭円朝は、怪談の百物語にちなんで百福の幽霊画を蒐集するとともに、それらの画から新たな発想を得ようとしたとか。
幕末・明治の激動の時代、「芸と禅」を極めんとした姿勢にも、大いに学ぶものがありました。
さてその幽霊画、毎年八月の間だけ、虫干しをかねて展示される他、Tシャツやグッズが販売されております。
全生庵を背景に。とっさに幽霊っぽいポーズを思いつけず普通に撮影。
あと、画像加工アプリが面白く、良い感じなので使ってみましたよ。
閑静な町の一角に、立派なお寺が。洋風の門がお洒落です。
展示場への入り口は階段下の通路から入ります。
案内に従って展示場へ。残念ながら幽霊画そのものは撮影できませんでしたが、大変素晴らしく堪能いたしました。
女性の幽霊の名前は「お菊さん」が多いのですが、これは「武家屋敷で、あるじなどの怒りにふれて殺された下女の総称」だそうです。
当時、身分の低い女性が、しばしば殺害されたことを物語っており、そちらのほうにも、ぞっとさせられたもの。
無料配布のうちわ。可愛い!
同じマークのTシャツやマスクなど売っており、ほぼ全生庵のマスコットと言っていいドクロです。可愛い!
全生庵のドクロマスクを購入してのち、東へ。
少し離れた場所にある、おいてけ堀に到着。
堀で魚を釣って帰宅しようとしたら、「おいてけ」という声が聞こえるという怪談。由来となったとされる地は、複数あるとか。
お堀めいたものを想像しておりましたが、完全に跡地でした。背景は学校です。怪談にちなんだ記念碑がある学校というのは面白いですね。下校時に「おいてけ」と声が聞こえたりするのでしょうか。
「ひゅー、どろどろ」的なポーズを試みるも、むしろ招き猫みたいになっております。
移動する途中、藤棚で有名な亀戸天神にお詣り。
名所を巡るうち、うっかり目に見えない何かがついてきてしまっても、しっかり祓われてくれたことでしょう。
橋を越えると、藤と池の風流な光景が広がっております。
池には鯉と亀がいっぱい。
大変立派な社の前には、自撮りのための台まである親切ぶり。
家族で気合いを入れて作った夏休みの工作みたいな手水。
ピタゴラスイッチみたい。
よくよく考えると、密にならぬよう複数人が手を洗えるという知恵のたまものでもあります。
さて終盤は、現代の落語と怪談を体験しようと、お江戸日本橋亭に行って参りました。
現代建築に、はめこまれたような和風の出入り口。
今回拝聴したのは、『桂文我 城谷歩 二人会』。
まさに古典落語と現代怪談のコラボであり、大変勉強になり刺激になりました。
古典のほうが生者がむごい目に遭って死者へと変わる描写が生々しく、幽霊となってのちの姿がおのずと想像されます。
対して現代の怪談は、幽霊となってのちの描写が精妙であり、生前いかなる姿であったか、いかにして死んだかが間接的に想像されました。
人間の死体そのものを目の当たりにする機会が多かった時代の描写と、その機会の多くが画像や動画へと閉じ込められた現代の描写の違いが、くっきり浮かび上がるようで、どちらも大変興味深く拝聴しました。
古典と現代を比較すべく、〆に「最先端の幽霊画」を見てみようというわけで、midjourneyのサブスク加入をした方に頼み、「番町皿屋敷のお菊さん」に挑戦してもらいました。
恨めしいあまり、皿そのものになってしまったお菊さん。
これはこれで可愛い! けど違う!
割れた分だけ皿を焼く西洋の魔女になってしまったお菊さん。
皿以外の食器も多数取りそろえております。
キーワードで日本テイストを強調したところ、AIがバリエーションで返してきました。
モダンガールになってよみがえるお菊さん。
皿使いの魔女となったお菊さん。
埴輪と化したお菊さん。
少女の幽霊となったお菊さん。
絵の雰囲気としては、これが一番幽霊っぽいというわけで、あらゆる食器に呪いをかける魔女となったお菊さんで打ち止め。
AIが恐怖をどう解釈するか。今後の進化が楽しみなような怖いような…。というわけで「夏の幽霊取材」を堪能して参りました。
冲方が挑戦中のホラー長編『骨灰』は、現在準備中! 刊行予定が決まりましたらお知らせいたします! 是非お楽しみに!
コメント・トーク
さて、ここからは恒例のコメントご紹介。
前回の話題であった「物語の毒」についてのコメントがほとんどですね。
冲方が意図したところと異なるところもあり、一つずつしっかり拝見して参りましょう。
さてその前にこちらのコメントを。
森人さんからのコメントです!
「リンダ問題」というやつですね。
ときとして人は、確率的に低いはずのものごとの方を、「確かだ」と思って選択してしまうことを説明するための問題。
述べられたことがらから、つい特定のカテゴリーを連想してしまい、「ああ、これはこうであるはずだ」と確率的に低い方を正解とみてしまう、人間の習性的なものの見方。
物語作りにおいては、「人物のギャップ」「ミスリード」「意外性の演出」といったテクニックが、こうした錯誤を利用したものと言えます。
さて順番に参りましょう。再び森人さんからのコメントです!
こちら、「毒」とは何かという定義を「衝撃的な展開」に置き換えてのご意見。
これはまあ、「刺激による混乱」ですので、それ自体は毒でも薬でもない、と言えるでしょう。
刺激を受けた本人は、受け止めることで精一杯となり、あたかも毒のように感じるかもしれません。
しかし、たとえ倫理観や常識が危機に瀕するような刺激であったとしても、「自分が知っている世界と、つじつまが合わないことへの混乱」が一時的に生じているだけで、ジェットコースターで上下の感覚が混乱するのと同様、自然と元に戻ります。
冲方も『ムカデ人間』をうっかり視聴して一時的に食欲を失いましたし、元祖『CUBE』を観てのちしばらくはドアを見るだけで恐怖を覚えました。
そうした体験を「トラウマになった」と表現することがありますが、本物の精神的外傷に比べれば、全然たいしたことはないでしょう。
ですので、ぜひ存分に、混乱に陥って頂ければと思います。
新城拓那さんからのコメントです!
さて、こちらの「毒」は、思想だったり感性だったりが、尖っているとか、異様だとか、不道徳だったりした場合を言っているのかな、と思います。
もちろん創作において、それらは武器でありますので、法に触れるものでないかぎり、あるいは夢中になりすぎて生活が破綻しないかぎり、書き手が遠慮することはありません。
妙に遠慮をして自分を出せないなら、書き手にならない方がいいでしょう。
ただし、犯罪や差別の流行など「社会の毒」と呼応してしまったときは別で、積極的に対処する方もいますし、そうすべきだと思います。
藤子不二雄A先生の『魔太郎が来る!』では、現実の犯罪の深刻化などもあって、表現やテーマを修正するだけでなく、映像化を作者自ら拒否し、一部のエピソードは単行本に収録しないよう定めたと聞きます。
むろん、人は自分の意思で何を読むか選択するのだから、そうした配慮は必要ない、という意見もあります。
そうした表現の問題では、「これが正しい」という態度は時代ごとに変化していくもので、絶対的な正解はありません。
ですが少なくとも、「社会の毒」を肌身に感じ取って、その危険を察する感性を持ち合わせない人もまた、書き手には向いていないと言えるでしょう。
さて、こちらは夏月さんからのコメントです!
この場合の「毒」は、異なる価値観同士のせめぎ合いのことを言っているのかな、と思います。
ある価値観が正しいという意見が多数の中で、異なる価値観を主張し、押し通す。
そうしたことがらで生じる摩擦や意見のぶつかり合いを「毒」と称しているのだろうと思いますが、これはまあ、「自我の芽生え」と等しく、人間にとって自然なことですから、これまた毒でも薬でもないかな、と思います。
そうした感性の芽生えはどんどん体験すべきですし、そうすることでしか、世界の多様な価値観を理解することはできませんからね。
ぜひ飛び出して行って下さい。
さてさて。
前回話題にした「物語の毒」とは何か?
これは本来、毒ではないもののことを言っています。
物語の効能とされていたはずの「コミュニティの結束を促す」「一体感をもたらす」「正しさとは何かを学ぶ」といった要素が、世界の変化によって逆の影響を及ぼすようになった、ということを言っております。
『ストーリーが世界を滅ぼす』では、現実に、どれほど物語が「コミュニティを分断させ」「一体感を遠ざけ」「正しさとは何であるかわからなくさせる」といった負の影響を及ぼしているかを、様々な事例を紹介しながら語っており、そうした事例に衝撃を受けた、というのが先週の話題でした。
原因の一つとして、インターネットの発達により、「同じ意見・志向を持つ者同士だけでつながり合うようになった」ことで、本来属するコミュニティも、異なる立場の人々の存在も、無視するようになったことが挙げられます。
こうした単一の価値観でつながり合うと、人間は自然と、より過激な主張をするようになるとされています。反対意見がまったくない中で議論するわけですから、目立つためには、最も過激で尖ったことを述べねばなりません。
またさらに、反対意見を述べる相手を、自分と同じ人間とはみなさなくなっていきます。
社会がこうした状態になることで、物語が担っていた本来の役割も、歪んだものとなりかねません。
ある物語がコミュニティの結束を強めるほどに、別のコミュニティとの対立が激しくなるばかりか、コミュニティ自体も分断されていく、ということになります。
たとえば「家族愛を描く」という鉄板のネタをテーマにするにしても、「どの層のどういった家族を描くか」でまったく異なるテーマとなるものです。だからといってルールなどないし、自分が好む家族像を、書きたいように書けばいい、もし社会的な弱者に光を当てたければ、そうすればいい、というのが当たり前でした。
しかし昨今では、うっかりすると日本ですら「父親が絶対正義の前近代的な家族像」と「共働きが当たり前の現代社会における家族像」のギャップが物語の中に入ってきてしまい、それら二つの相反する家族像同士のギャップをむしろ深めてしまいかねません。
物語が、そんな意図はないのに、おのずと社会のギャップを助長する役目を負わされてしまうのです。
アメリカではこれに、年齢、人種、ジェンダー、政治信条、宗教の問題が加わるわけですから、とにかく多様な価値観を網羅するか、いっそどこかのコミュニティに加担して一つの価値観しか提示しない物語作りをするか、という選択を迫られます。
また他にも、インターネットを活用する企業が、莫大な予算を費やして開発し続けている、「人をネット中毒にさせる技術」が、これからどんな影響を及ぼすか計り知れません。
ここでいう中毒とは、ある一つのものに集中させることで、人から選択する意思を奪い、他にあるものの価値を忘れさせることをいいます。
ここでも、単一の価値観によって結びつけられた人々の輪が、あちこちで生まれるわけですから、いくつもの異なる人々の輪の間で、いつどのような対立が生み出されるかわかりません。
これまで物語は、そもそも多様な価値観が雑居していた、日本なら日本という大きめのコミュニティを前提として、様々な価値観を、ときに守り、ときに古いものとして退けつつ、新たな価値観を提案することで、コミュニティに貢献する、という役目を担っていました。
どれほど過激な表現であっても、受け止めるコミュニティが大きく柔軟であれば、それも表現の進歩に寄与することになったのです。
しかしこれからは、コミュニティごとの規模がどんどん縮小し、その分だけ数が増え、価値観の違いによる分断が進み、中庸を求めることも難しくなるでしょう。
あるコミュニティでもてはやされる作品やそのベースとなる思想が、別のコミュニティでは嫌悪され、執拗に攻撃される、ということが、今よりもっと多く生じるはずです。
あるいは同じ作品を、複数のコミュニティがそれぞれ異なる仕方で評価することにより、互いを嫌悪し合う理由とするでしょう。
いずれは作品を作ることそのものが、数多の、単一の価値観に縛られたコミュニティの結束を促すと同時に、そうしたコミュニティ同士の攻撃を誘発することに加担していく、ということを意味するようになります。
こういうわけで、冲方としては、社会の状況が物語作りそのものをどう変貌させていくのか、危惧しつつ、しっかり見定めねばならない、と思うわけなのでありました。
あとがき
今週は、あっさりめの取材レポートで、と思いきや、前回からの話題を長々と述べることとなり、なんとか日が暮れる前には投稿できそうです。
こうして記事にすることで、自分の思考をクリアにしてゆけるのはありがたいことだと思いつつ、やはりこれまた創作塾noteの話題ではないかと反省もしつつ。
皆様におかれましては、世が多様であるからこその、唯一無二のご自身を大切にしつつ、どうか健やかに一週間をお送り下さい。
冲方丁でした。
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