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僕が僕であり、彼が彼であること(改訂版)

知人がふらりと店にやってきて世間話をする。彼は筋金入りの発達障害だが、聞くと最近は発達障害の子供向けの薬があるそうだ。大人の彼が飲んでも世界がスッキリと見えるけど、あまり飲みたくないらしい。

でも、発達障害で不登校の子供は飲んで学校に行くのはありかなと話す。

不登校の子供は発達障害の場合もあって、彼もまたほとんど学校に行っていない。

わたしは何もわかってないので、学校に行って勉強することや友だちができるのも大事だからねと答えると、即座に彼に否定された。

成長期に自尊心が傷つけられ続けると、大人になっても取り戻せないというのがその大きな理由だった。

学校に行かなくても誰も何も言わず、自分も何とも思はない社会なら薬を飲んでまで行かなくてもいいけれど、今の日本は違う。

学校に行かないことで、周りから傷つけられ、自分でも自分を駄目な人間だと傷つけてしまう。

彼は今では友人もたくさんいて、知識も豊富だ。だが、幼少期に得られなかった自尊心を取り戻すことはできない。

今でも彼はふっと連絡が取れなくなくことがある。どうやら家から出たくなくなるようだ。数ヶ月後に変わらない様子でまた現れる。わたしやまわりの人間はそれをなんとも思わないが、学校や会社ではそうはならないだろう。


わたしは幼稚園から小学校低学年まで毎日のように泣きながら学校に通っていた。給食を残してはいけない時代だったので、食べきれなくて毎日休み時間まで座らされていた。

喘息で定期的に学校を休み、背もクラスで一番低く、ひどく痩せていた。内向的で気が弱くすぐ泣く。クラスどころか学年で一番弱々しい存在。勝者を目指すなんて考えたこともなく、生き延びることが目標だったあの頃。

それでも彼と話しているとわたしは恵まれていたのだなと思う。そして、彼もまた才能に恵まれていたからこそ生き延びてきたようにもみえる。彼には自殺してしまった不登校の友人たちが何人もいると話してくれたことがある。



社会にうまく馴染めずに、わたしも彼もフリーランスの生き方に流れついた。会社員になれなかったからここにいて、こんな風にふたりで話している。

地域や、その時代によっては発達障害であってもさほど問題なく生きていくことができる社会があっただろう。そこで生まれたらわたしはどんな人間になっていただろうか。

伸び伸びと成長した自分の姿はまったく想像できないし、それははたして僕なのだろうか。

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