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【映画感想】『ゴールデンカムイ』はなぜ「実写化成功」と言われるのか。

★★【見て損ナシ】
大人気漫画『ゴールデンカムイ』の実写映画化。原作未読でも結構楽しめる作品でしたが、おそらくプロローグくらいの内容なので若干の物足りなさはあり…。ただ、とにかくクマが強い!豪華な映像に「実写化への気迫」を感じました。

『ゴールデンカムイ』
原作:野田サトル
監督: 久保茂昭
出演:山崎賢人, 山田杏奈, 玉木宏, 舘ひろし, 矢本悠馬
上映時間:128分
日本公開:2024年1月19日

▶︎あらすじ

舞台は気高き北の大地・北海道、時代は、激動の明治末期―。

日露戦争においてもっとも過酷な戦場となった二〇三高地をはじめ、その鬼神のごとき戦いぶりに「不死身の杉元」と異名を付けられた元軍人・杉元佐一は、ある目的のために大金を手に入れるべく、北海道で砂金採りに明け暮れていた。 そこで杉元は、アイヌ民族から強奪された莫大な金塊の存在を知る。金塊を奪った男「のっぺら坊」は、捕まる直前に金塊をとある場所に隠し、そのありかを記した刺青を24人の囚人の身体に彫り、彼らを脱獄させた。

囚人の刺青は全員で一つの暗号になるという。

そんな折、野生のヒグマの襲撃を受けた杉元を、ひとりのアイヌの少女が救う。「アシㇼパ」という名の少女は、金塊を奪った男に父親を殺されていた。金塊を追う杉元と、父の仇を討ちたいアシㇼパは、行動を共にすることに。

同じく金塊を狙うのは、大日本帝国陸軍「第七師団」の鶴見篤四郎中尉。日露戦争で命を懸けて戦いながらも報われなかった師団員のため、北海道征服を目論んでおり、金塊をその軍資金代わりに必要としていた。

そして、もう一人、戊辰戦争で戦死したとされていた新撰組の「鬼の副長」こと土方歳三が脱獄囚の中におり、かつての盟友・永倉新八と合流し、自らの野望実現のため、金塊を追い求めていた。

公式サイト

以下、ネタバレ含みます。


▶︎3つの感想

1.とにかくヒグマの迫力がスゴい

東宝MOVIEチャンネル(YouTube)より

北海道が舞台の「ゴールデンカムイ」。
そして、北海道の”森”には、彼らが住んでいるのだ。

ヒグマ

アイヌの人々に「キムンカムイ」(山の神)と呼ばれるヒグマは、信仰と畏怖の対象として圧倒的存在感をもって森に鎮座している。黒褐色の巨躯は悠然と佇み、ときに敏捷に駆ける。その獣臭は彼らの存在を他者へと知らせ慄かせ、咆哮は死を覚悟させる。「山の神」。ヒグマの存在こそ、北海道の森に欠かせない姿なのだ。

映画「ゴールデンカムイ」がある程度の説得力を持っている理由は、このヒグマのリアリティに他ならない。監督を務めた久保成昭は次のように語っている。

「もちろん映画はエンターテインメントではあるのですが、ヒグマの迫力や怖さがリアルに伝わらないと、お客さんが冷めてしまうと考えていました。松橋(真三)プロデューサーからも、『ゴールデンカムイ』は熊の映画でもあると言っていただいたので、それをVFXチームにも伝えて、徹底的にこだわろうと意思疎通をしていました」

シネマトゥデイより

『「ゴールデンカムイ」は熊の映画でもある』ことを見抜くプロデューサーも素晴らしいし、それに必死に答えた監督、そしてVFXチームがこの映画の第一の立役者だと僕は思った。ヒグマの恐怖が伝播することで、映画全体が持つ暗い雰囲気、日露戦争直後の北海道という”試される大地”の緊張感が伝わってくる。

僕がこの映画が「熊の映画である」ということを痛感したシーンがある。

森のなかを逃走する主人公・杉本佐一(山崎賢人)が、北海道で金塊探しに勤しむ大日本帝国陸軍「第七師団」の追手に追い詰められるシーン。杉本がヒグマの冬眠する穴に飛び込むと、眠っていたヒグマが穴から飛び出し、第七師団の追手を惨殺していく。

このシーンでは、ほぼ原作に準拠するかたちで兵士たちがヒグマに殺されていくのだが、そのなかの一人は、なんと「顔をひっぺがされる」ようにして殺される。ヒグマのひと殴りが兵士の顔を削りとり、とれかけの瘡蓋のように、”表情”がぺろんと吊り下がる。なんと残酷な演出だろうか。

そして、この演出が、あるいはCGが、どう見ても「CG」なのだ。もう疑いようもないCG然としたデジタル感が拭えず、もはやある種の諦めすら見える。ひっぺがされた顔はもはや人体としての質感を一切捨てて、CGのオブジェクトとしてそこにある。だから、実はあんまりグロくない。

でも、きっとそれでいいのだ。監督やVFXチームは、この完成度の低いCGをもってしてでも、「顔ぺろ」という極端な暴力を瞬時に生み出すヒグマの圧倒的な強さを描くことを優先したのではないか。つまり、これは”熊の映画である”という宣言とも言えるシーンではないか。

2.なぜ「成功した実写化」と言われるのか

東宝MOVIEチャンネル(YouTube)より

そして、実はこの原作にあるヒグマの暴力を優先し、それにあわせてCGを頑張るという姿勢が、僕はこの映画「ゴールデンカムイ」における”実写化の気迫”だと感じている。予算的、あるいは表現的な制限を考えれば、わざわざ「顔ぺろ」しなくても、そのシーンを見せないという選択も可能なのだ。グロテスクな表現は、必然的に観客の層を狭めてしまうし、そのたった数フレームのCGにいくら予算がかかるだろうか。

ただ、この「ゴールデンカムイ」はその節約を拒む。原作通りのグロテスクな、あるいは「強い」表現を、あえて全力で再現しにかかっている。そこにこそ、「成功した実写化」と言われる所以がある気がしてならない。

その最も顕著な例が、キャラクター造形である。原作「ゴールデンカムイ」では、その容姿、攻撃性、破壊力が極めて特徴的なキャラクターがたくさん登場する。むしろ、全てのキャラクターが”際立っている”とも言えるかもしれない。

前頭葉が吹き飛び”変な液”の滴る鶴見中尉
謎の四角い板が額に埋め込まれている「不敗の牛山」
白髪のダンディがすぎる新撰組の残党・土方歳三

正直、ここまで「漫画的なキャラクター」を実写化するにあたって、おそらく戯画化する、つまりコスプレ的な印象を拭えないのではないかという不安を多くの原作ファンが抱いていたのではないか。公開前に劇中写真が流布すると、「衣装が汚れていない」といった物質的な批判から、やはりコスプレへの不安が囁かれていた。

しかし、劇場公開後の反応は違った。
僕はその理由が、ヒグマのCGに近いところにあると思った。つまり、見た目の再現ではなく、行動や性質の再現に重きを置いたのではないか、ということだ。もちろん見た目の再現も最低限は担保しつつ。
印象的なシーンがある。

小樽で囚人を探していた杉本は第七師団に捕まり、鶴見中尉の尋問を受ける。

このシーンで、鶴見中尉は、提案を受け入れない杉本の頬に「団子の串」を刺す。唐突に。その串は杉本の頬、そして口を貫通し、どう見ても痛い。では、このシーンを見ている最中、観客は、杉本や鶴見の服装や容姿の再現度に注目するだろうか。否、「団子の串を頬に刺す」という鶴見の暴力性と、「団子の串が頬に刺さっても動じない」という杉本の異常性(あるいは不死身)に目が行くのではないか。

これこそが、実写化で目指すべきところの「キャラクターの忠実な再現」な気がする。それはコスプレ的に見た目を再現すればいいという甘い話ではなく、監督や制作チームがそのキャラクターの本質を理解し、役者がその魂を演じるということではないか。映画「ゴールデンカムイ」はこの部分で非常に成功していると思う。

3.”ストーリー構成”における原作との違い

東宝MOVIEチャンネル(YouTube)より

しかし一方で、原作から改変されている部分で1つ気になるところもあった。それは、主人公の杉本が「なぜ金塊を探しているのか」という根源的な部分で、主人公の、そして物語の動機となる大切なパートだ。

端的にまとめると、その動機とは、
【友人の願いを叶える、あるいは友人の妻を救う】
なんだが、このモチベーションが明かされるタイミングが原作と映画で違う。

原作は物語の冒頭なんと第2話でわかるのに対し、映画ではエンディング近くなって初めてわかる。この変更はどうしてだったのだろうか。

僕は原作未読で映画を見た。その立場から言うと、なぜ杉本が金塊を探しているのかわからず、杉本の人間性がほとんどずっと見えずに進む。「不死身の杉本だ」と絶叫する、金塊欲しさで人をも殺す残忍な人物に見えてならない。だから正直、「別に狂人の金塊探しにはあんまり興味ないな」という印象で、映画の物語には全然ノレなかった。(上述の表現としての凄さは面白かった)

今でもなぜこの改変が行われたのかはわからない。原作を読んだ上で映画を見た人には、この流れの方が面白く見えるのだろうか?

原作を読むと、キャラクターの残虐さや暴力の裏に、人の心があることがよく描かれている。だからこそ、「金塊を狙う」というあまりにも即物的な目標に合点が行くし、繰り広げられる死闘を受け入れられるのではないか。「ただ金が欲しい」のではないモチベーション。映画化ではこうした「人の心」はできるだけ省かれて、表現における勝負に終始しているような印象を拭えなかった。

いや、あるいは、2で書いたように、その「人の心」はプロット上に存在しなくとも、役者の演技に宿るということなのだろうか…?



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