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当たり前が当たり前じゃないことが当たり前じゃない。

こんばんは。
昨日はなんか暗い記事あげちゃったなあ、病んでるって思われてたらどうしようなんて思いながら今日もビール片手に文字を打ってます。
12月も19日。
年始に誓った3年越しの目標 “今年こそは腹筋を割る” はどうやら4年目に持ち越しそうです。
まずは飲酒習慣から見直した方がいいかもしれません。

2023年はわたしにとっての「当たり前」について気づくことがいくつかありました。
当たり前なんですが、自分の「当たり前」は他人には「当たり前ではない」んですよ。
ということは、当たり前が当たり前じゃない、も当たり前ではないのかもしれません。
だって当たり前なら喧嘩とか戦争とかしないもの。
なんだかよくわかんなくなってきましたが、そんな感じ。
ゲシュタルト崩壊を起こしそうなのでこの辺にして、そんなこともあるのかもなあくらいに思ってもらえればと思います。
で、何に気が付いたん?って話なんですが、

ーわたしが言う「みんな」は同期にとっての「みんな」じゃない
ーおじいちゃまがわたしの生活に一眼レフを置いた

です。
2つとも友人のぽすちゃんと話してて気が付いたことなんですけど、スナック感覚な会話の中でこういう事に気が付かされるからたまらん。

これはぽすちゃんと食べた4合のおにぎり、もちろん一人一個です。

わたしが言う「みんな」は同期にとっての「みんな」じゃない

「みんなで遊ぼうよ」とか「みんな笑顔がいいよね」とか「みんながいいなら…。」とか。
自分の周りの環境・人たちをしめすには便利な言葉「みんな」。
便利だけど定義ってないですよね。
知り合いやったら「みんな」?友人やったら「みんな」?
たぶんそれぞれ濃淡をもって使ってるんじゃないかな、そしてその範囲なんて意識せず使ってる、そう思います。
かく言うわたしもぽすちゃんに言われるまでそんなこと思いもしませんでしたが。
わたしの「みんな」もぽすちゃんの「みんな」も同じだと思ってたんですよね。

「ゆうぞうはなんで考える単位が世界中なの?」

まさに青天の霹靂、もはや思考の天変地異。

幼いころから「世界平和」に憧れを抱いて、一時期は日本の内閣総理大臣になることが将来の夢でした。
大きくなってそんな夢を追いかけなくなっても漠然とみんなが幸せならいいのに、無責任にも漠然とそんなことを思ってました。
「みんなが幸せならいいのに」
わたしにとってこの「みんな」は、知りもしない存在さえも個別に認識していない地球の裏側の人も含まれていて。
存在する全ての「みんな」がわたしの範囲だったんです。
まずは人、そして叶うなら他の生き物も、あわよくば書籍や建築物といった生命以外の存在も幸せであればいいのに、そう思ってました。

でもどうやらそれは世の中では違うらしい。
とりあえずぽすちゃんの言う「みんな」とは違うらしいのです。
ぽすちゃんにとっての「みんな」は自分の知りえる人、認識している人。
地球の裏側の人を蔑ろにするわけではないけど「みんな」ではない。

別にどっちが良いとか正しいとかそんな話ではなくて。
育ってきた環境が違うからすれ違いとまでは行かなくても、感覚や価値観の違いがあるのは当たり前なんですよね。
日本人の同年代の同性でもこうなんだから、性別や年齢、はたまた国籍がちがえば違いがあるのは当然のこと。
その違いを楽しめるのか、これに尽きると思います。

(こちらゆうぞうが総理大臣になりたかった話⇩)

おじいちゃまがわたしの生活に一眼レフを置いた

わたし、趣味がカメラなんですよ。
そんなこと言うとすごい拘ってる人みたいに見えるけど、そんなことはなくて。
ただ一眼レフカメラと一緒に出掛けるのが大好きなんです。
それが旅行でも出勤でもカメラを携えて家を出る、好きだと感じたものをレンズの中におさめる、それだけです。
お財布と同じようにカメラを持って出かけてる、それだけ。
でも周りから見たら「趣味がカメラ」ってのは崇高(というか特殊?)に見えるらしい。
わたし個人としてはスマホで写真を撮るのと変わらんくらいに身近で日常なんですが、どうやら違うそうな。

お出かけ先でカメラをかまえるゆうぞう、カメラとは大抵一緒にいます。

カメラに興味をしめしてくれたぽすちゃんがふと、
「でもカメラってちょっとハードル高いんだよね。」
と。
わたしの脳内は???でいっぱいでしたが、聞いたところによるとカメラを所持するというのは身近なことではないらしい。
曰く、
今の時代スマホで十分とれるし、カメラを持ってまで撮りたいと思うものがそんなにあるのか分からない、と。
別にカメラで何か特別なものを撮っている感覚が無かったので完全にぽすちゃんの言葉を理解できたわけではないのですが、
とりあえずカメラというのはわたしが思っているよりも特別なものらしい。
旅行とか撮りたいものがあるとかそういうものらしい。

近所のスーパーに行く道中の写真。

にしてもどうしてわたしはカメラという存在を軽んじて、いえ、身近にかんじているんだろう。
決して安いわけでも軽いわけでもないですが、丁重に扱う相手ではないんです。
それこそ面白い記事とかツイートを見つけたらシェアしたくなる友人みたいな存在で、
一緒にいることに違和感や緊張感どころか安心すら覚えて好きなものは共有したい。
わたしが自分のカメラを買ったのは高校生のときですが、それこそ「一眼レフカメラ」という存在がずっとあったんじゃないかなと思うほどに。

そこではたと気が付いてしまったんですよね。
自分のカメラを持っていなかっただけで、わたしは齢一桁のころから生活の中に一眼レフカメラがあるのが当たり前だったんです。

幼稚園や小学校の運動会、ふとした家族団らんの時間、わたしの日常には祖父のフィルムカメラがあって、
祖父が大事に思ってくれていた家族の日常をおさめてくれていました。
だからわたしにとってカメラは特別なものを写すものじゃなくて、自分の大切なものや好きなものを写すものなんだなあ。
祖父がわたしの生活の導線上にカメラを置いてくれていたんだと最近になって気が付きました。
わたしは型や古いしきたりになんてとらわれない!とか思ってましたけど、家族や過ごした環境の影響って無意識下ですごく大きいんだなあ。

そんなわたしにカメラという眼鏡をかけてくれた祖父は先日亡くなり、忌も明けていない年の瀬ですが、
その影響でカメラを愛してしまった私に魂を宿して祖父は生きているんだと矛盾なことを感じています。

祖父からもらったカメラとのツーショット。


わたしがゆうぞうとして生まれたことで祖父から受けた影響はわたしの人生で大きいですし、友人がぽすちゃんとして生まれたことで得たものも大きいはずです。
全く似てないし、片や福岡の田舎、片や関東の都会で育ったので価値の単位や当たり前が違うのは当然ですがそれを楽しめるわたしと友人でよかった。

まるで読書をするように他の人にとっての「当たり前」を否定せずに楽しみたい。
自分の価値観、当たり前を矯正しようとしなくてもいいけど、同時に他者に自分の当たり前を押し付けない自分でありたいそう思います。
わたしにとってきれいな景色、好きな景色が「みんな」にとって普通の景色でもレンズにおさめて残しておきたいな。
そうして好きだと思ってくれた人が見られるようにしておきたい、鬼には笑われてしまうかもしれませんが2024年の目標です。
もちろん、腹筋も割りますよ。
手始めにWEBでポートフォリオや写真集をつくってみるかな。
みんなの当たり前を許容する世の中が当たり前になりますように、総理大臣という夢は追いかけてないけどそう願うばかりです。

投稿枚数全く多くない私のカメラ用Instagramアカウントをしれっと載せておきます。
https://www.instagram.com/imoimo_camera/


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