見出し画像

どんなことも、正義感では行うな。

買い物をした帰り道、作業着を着てゴミ拾いをしている三人の男たちを見かけた。一人が袋を持ち、他の二人はお菓子の袋やジュースの缶などをトングで掴んで袋に入れていく。おお、これは素晴らしい。興味を持つとなんでもすぐ自分でやってみたくなる性分の私は、翌日にはトングとゴミ袋を買ってきて単身町へと繰り出した。道端の草むらに捨てられているビニール袋やアイスの容器、食品のプラ容器や吸い殻などを拾い上げては袋に入れていく。拾ってみると想像以上にゴミは多く、45リットルの袋はあっという間にパンパンになった。

車の運転手と目が合い、にっこり微笑み合う。散歩中のマダムに「偉いねー」と話しかけられる。誰がどう見ても私はいま、善いことをしている。正しいことをしている。人様から褒められることをしている。しかしせっせとゴミを拾いながら、心の中にある感情が沸々と湧いてきたのを私は見逃さなかった。それは「怒り」だった。誰だよこんなところに食べ物のゴミを捨てたのは。信じられない。一体どういう育ち方をしたんだ。こういう奴がいるから…云々。「あ、これ危険なやつだわ」と思い、私は早々にゴミ拾い活動を切り上げた。

何をするかより、それをしている時の心の状態を見つめなさい。これはかつて私が私に定めた、私のための信条だ。どんなに意味のなさそうなことでも、それをやっている時に心が喜んでいるならば、それをやる価値は大いにある。逆にどんなに立派なことでも、それをやっているとだんだん心が荒んでいく感じがするならやらなくていい。大仰なことをする必要はない。なんの価値もなさそうなことでも、心が喜んでいるならやりなさい。何をするかより、それをしている時の心の状態を見つめなさい。やっていて充足感のあること、楽しい気持ちになれることをやりなさい。

そのような考えに至ったのは二十代の頃である。ある時期にふと、「人間は自分の悩む内容を自分で決められるのではないだろうか」という大胆な仮説を立てて検証することにした。当時音楽制作で身を立てようと日々邁進していた私は、「ではこれから先は曲作りについてだけ悩むとしよう。どんな和音にするかや、音色作り、メロディーラインなどについては大いに悩もう。その代わり対人関係やお金について悩むのは一切やめよう」と決めた。すると本当にそうなった。作曲以外のすべての悩みが消え、最初のうちはまるで快適な人生が始まったかのように思えた。しかしその裏で、曲を作り始めるといつも発狂しそうになっていた。まず、部屋が荒れた。作業が滞るとイライラし、舌打ちしたり、汚い言葉を吐いたりするようになった。楽曲制作中は誰にも会いたくないのでこもりがちになった。一曲完成するたびに気持ちは穏やかさを取り戻した。しかしそれは「ようやくこの曲の世界から脱出できる」といった解放感にも近かった。音楽を作っている時の私の心は、喜びよりも苦しみが多くを占めていた。

今ではそんな生活から「解放」され、毎日を心穏やかに生きる道を選択している。果たしてその選択が正しかったのかどうかは今となってもわからない。後悔や未練の類は一切ないが、あのまま躍起になって作り続けていればまた別の景色が見えたかもしれないと思う節もある。体験していないことはわからない。ある小説家がインタビューで答えていた。「筆が乗ってくるにつれて実生活は破綻していきます」。ゼロから作品を生み出すというのはある側面ではまさに戦いだ。私も17歳から十数年間戦ってきた。私はその戦いに、ついぞ耐えられなかっただけなのかもしれない。

だが一方で、音楽という分野が他の分野の創作行為とはいろいろな面で毛色が異なるのも確かな実感としてある。苦難の作曲家と言えばベートーヴェンが思い浮かぶが、ベートーヴェンの苦しみは彼自身の運命の中にあり、彼が曲作りについて悩んだという話は聞かない。ひょっとすると一流の作曲家というのは、むしろ曲作りについてだけは悩まない人のことを言うのではないだろうか。もしもそうだとしたら、私はとんだ見当違いをしていたことになる。答えはいまだ出せていない。体験していないことはわからない。しかしこれだけははっきりした。作曲で身を立てようと志し、曲作りについてだけ悩むと決め、本当に曲作りのことだけを悩んでいたら、人生が大変つらくなった。大好きで始めたはずのことが、唯一の苦しみの発生源になってしまった。このままこれを続けることが自分にとって本当に良いことだとは思えなくなってしまった。“これから先は、何をするかより、それをしている時の心の状態を見つめよう。どんなに意味のなさそうなことでも、それをやっている時の心が喜んでいるならば、それをやる価値は大いにある。逆にどんなに立派なことでも、やっているとだんだん心が荒んでいく感じがするならやらなくていい”ー。私は私のために、そのように定めたのだった。

先日、流木を拾いに行こうということで宮崎県延岡市の港神社に連れて行ってもらった。大量の流木が流れ着いている不思議な海岸である。以前来た時にお迎えした龍の頭そっくりの子を玄関にお祀りしている私にとって特別な場所なのだが、Googleレビューに「ゴミが多くて残念です」と書かれていた。新しいお仲間をお迎えするついでに海岸清掃でもしますかと思い、あの日断念した清掃活動にもう一度チャレンジすることにした。

海岸に流れ着いたペットボトルやプラスチックゴミを拾いながら、私は自分の心の状態をチェックした。不思議なことに、その日は怒りが湧いてこなかった。神様を前にすれば、ゴミを捨てたのは「どこかの誰か」ではなく「私たち人類」だ。そして今回の目的は海岸清掃ではない。カッコいい仲間を見つけて連れ帰ることだ。ゴミを拾って袋に入れていく時の私の心の状態は、「“私たち”が海を汚してしまったことへの申し訳なさ」が一割、「あとでじっくり吟味してメンバー選出しようと思っている流木たちへの好奇心」が九割方を占めていた。

河合隼雄氏によると、「すべての善行は贖罪意識から生まれる」という。善行を成す人は、自らの犯した罪の意識を善行によって埋め合わせているだけなのだという。なんとも恐ろしい話ではないか。善行の正体が贖罪だとすれば、正義感なんてもっての外だ。どんなことも、正義感では行うな。善いことをしている自覚なく、申し訳なさと好奇心で何かをする時、私たちは本当の意味で救われているのかもしれない。

Threads始めました!

内なる声に聴いた「家」を、本当に見つけてしまうまでのお話
▲全人類読んでね!

日向神話ゲストハウスVIVIDインスタグラム
▲毎日ビビッと更新中!フォローしてね!

日向神話ゲストハウスVIVIDがオープンします!【ご予約制】
▲ゲストハウスに泊まりたい人は読んでね!

この記事が参加している募集

#やってみた

37,443件

#この経験に学べ

55,940件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?