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生きづらさの理由とうつむきながらでも希望を見つける方法── 『大河の一滴』 | 五木寛之

「なんでこんなに苦しいんだ」
いつからか、ぼくは生きづらさにもがきながら生きてきた。
だけどこの本に答えが書いてあった。
この世は「地獄」だったんだ。
ぼくは、それを知って少し楽になった。

『大河の一滴』に書いてあった答え

私たちはいまたしかに地獄に生きている。しかし私たちは死んで地獄へちるのではない。人はすべて地獄に生まれてくるのである。鳥は歌い花が咲く夢のパラダイスに、鳴物なりもの入りで祝福されて誕生するのではない。
 しかし、その地獄のなかで、私たちはときとして思いがけない小さな歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇跡のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人して生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。皆とともに笑いころげるときもある。
 その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるのでもなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。人が死んだのちにく最後の場所では決してない。
「地獄は一定いちじょう
 そう覚悟してしまえば、思いがけない明るい気持ちが生まれてくるときもあるはずだ。それまでのたうちまわって苦しんでいた自分が、滑稽に、子供っぽく思えてくる場合もあるだろう。
 私がこれまで自殺を考えるところまで追いつめられながら、なんとかそこから立ち直ることができたのは、この世はもともと無茶苦茶むちゃくちゃで、残酷で、苦しみや悲惨ひさんにみちみちているものなのだ、と思い返すことができたからだったと思う。

『大河の一滴』(五木寛之)

「やっぱり地獄だったんだ」
ぼくは納得した。

そして、そんな苦しみのなかにいながらも、思いやりを持っている人が存在する。
そんな人や出来事に出会ったその一瞬を、「極楽」というのだそうだ。

「感謝」の気持ちは、極楽のただなかにいることを知る手がかりになるのだと思った。

希望の見つけ方

 たとえば、足もとに目を落としたとき、そこにくっきりした濃い黒い影がのびていれば、自分が背後から強い光に照らされているということに気がつくでしょう。上を見ることだけが光を探す手段ではないのです。同じように、胸を張って遠くを見ることだけが希望を見つけることではない。悲しいときやつらいときには、うなだれて肩を落とす。深いため息をつく。そうすることによって、自分を照らす希望の光の存在を、影が教えてくれるということもまた、ありうるのではないでしょうか。そう願いながら生きていくしかないと思うのです。

『大河の一滴』(五木寛之)

ぼくは光と影について、こんなふうに考えたことはなかった。
うなだれてばかりの今のぼくにも、希望は見つけられるのだと知ってうれしくなった。

苦しい理由と希望を感じて

この世が地獄なら、そりゃ苦しいわけだ。
「しょうがないや」
そう思えて、ぼくはホッとしたんです。

みなさんは、どう感じましたか。

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鶯谷 奏(うぐいすだに かなで)
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