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【NO死生観NOLIFE】 第4回感想

5月に初めて身内の死を経験してから、死というものについて色々考え始めました。そんなタイミングで友人がFacebookでシェアしてくれた死生観講座とやらに参加しています。

“はっぴーの家ろっけん”という神戸にある多世帯型介護付きシェアハウス。その経営者の方が主催する
”どう、死にたい?どう、生きたい?偏差値より人生偏差値!学力より生きる力を掴み獲る秋”
をテーマにした講座。隠しきれない溢れ出るカオス。最初は面食らうけど入ってみると優しい人達で居心地は最高です。

毎回の講座で時系列に心に触れたことを箇条書きにするスタイル。

今回は第4回。テーマは”死と生にある”曖昧”な境目”
福井にあるオレンジケアクリニックの紅谷先生がお話してくださりました。コロナで中止になったけど、8月に見学させて頂く予定だったのでめっちゃ嬉しい。

人と人との関係


ALSの患者さんを受け入れる時。今までALSの患者さんを診たことはない、初めて診る。最初にどうコミュニケーションを取るか。
僕も一生懸命勉強してできることをやるけど、多分完璧ではない。そんなやつでも一緒に付き合って教えてやるかと思ってくれるなら、うちの診療所で受け入れさせてほしい。そしたらその地域でALSの患者さんを今後診られる様になるし、一緒に地域づくりと想ってやってくれませんか。そんな風に始まってく。


思ったこと。

対立する関係ではなくて、一緒に並んで先を見ている光景が浮かんで、そういう距離感、付き合い方で患者さんと一緒に同じ地域にいる、という感覚が素敵だと思った。今ってすぐに責任の話しが出てきて、高齢者で歩かせると転倒の危険があるからダメ、重症心身障害児の子はここまでしかさせちゃだめ。もちろん心配なのはあるけど、何かあった時の責任を取れないという保険をかける意味合いも強いと思う。そんなにお互い完璧じゃなきゃいけないってとっても息苦しいし、何かあったときに相手のせいと非難するのって自分にとってもいいことはない。それってどう解決するのかなあとか考えてたことがあったけど、紅谷先生の佇まい方ってすごく参考になるんだろうなあ。責任の話どうこうより、普通にその関係性が素敵で、その上で責任の話しも解決されるなら、ああいいなあという順番。


医療の範疇とおせっかい。


重症心身障害児の子にあまり何かしてあげられてない。病院と家しか居場所がないのは不健全。
第三の居場所をつくりたい。呼吸器の管理も出来て元気に遊べる場所を作る、…周りでできそうなのが自分だったから自分がやった。
今まで障害で喋れないと思っていた子が、そういう場で友だちといると喋れるようになったりする。
医療が友達を奪って成長を止めていた?障害があるからこれは危ない!それが発育を止めていた?
人工呼吸器入ったまま海入ったり。
障害児はもともと歩けないから歩けないことを障害と思ってない。周りに障害と言われるから障害と考え始める。

思ったこと。

上の話にも共通すること。過度な思いやりが何かを制限してしまうこと。養鶏場で育った子供のほうが小さいときから色んなものにさらされるからアレルギーを持ちにくい、今は清潔な環境に居すぎてアレルギーが増えた、という話を聞いたことがある。
何が優しさで何がおせっかいなのか、医学が線を引くのではなく、本人が引いた線の内側を最大限安全に、楽しく過ごせるように医学があるべきなのかな。

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人との出会い方

医者や看護師に出会うのが、自分が苦しいときなのはネック。出会い方が大事。苦しい辛いで出会うと、その後も苦しい辛いの話をする人になっちゃう。会って調子はどう?と言っても今日は悪いとこないよ。天気がいいねの話にならない。だからカフェを併設して、美味しい、楽しいで出会うことをしたい。

思ったこと。

有名な心理学の実験で、人は記憶を周囲の環境と結びつけるというのがあって、家で普段勉強する人は家の環境が一番成績が良いし、水中で勉強させたら水中のほうがその科目の成績がよかった、そんな実験だった気がするけど。でも日常でも音楽を聞いてそれを聞いてた場所を思い出したり、そういうことってある。
病院の外に医療者が出ようという話がよくあるけど、その効用ってこんなとこにもありそう、面白い。

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健康は誰のもの?


内科検診というと、子供が並べられてベルトコンベアのように流れて済まされてく。後日健康かどうかの結果が帰ってくる。健康かどうかを決めるのが医者になってしまっている。自分の健康が外部に委託されて自分のものじゃ無くなっている。
内科検診を自分の体の好きなところを絵に書いて自慢してもらうところから始める。
聴診の音も本人に聞いてもらう。子供に聴診される紅谷先生。
高学年にはポジティブヘルスの考えを使ったワークシートを使う、健康を本人にかえしていく。
WHOの健康の定義を満たす人間なんている?健康は能力。頭が痛くなったときに、なにをすればいいか誰に相談すればいいか考えて対処できる、そういう能力があることを健康と定義。ワークシートを診ながら1人あたり10分くらい対話する。


思ったこと。

健康を本人にかえす、という言葉がとても印象的だった。イギリスに行って、家庭医が医療の案内人だって例えをされる、そんな役割だと聞いたのを思い出した。それもそうだけど、患者がある程度自分の健康に関心を持って、管理?するちからを持つというのもとても大切だなあと。
何かを外部に委託するということ、そしてその結果それに興味を持たなくなるということ、それはこのコースで扱ってる”死”についても同じ気がする。
”死”も”健康”も完璧な答えは誰も持ち得ない。というか人によって違う。自分にとっての”死”や”健康”を、しっかり自分に帰属して、その在り方を模索して、ああこんな感じかな、ここらへんが丁度いいのかなと、そんな風に出来たら良いのかもなあ。

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医学というものさし


病院では死亡宣告、心電図が止まったときが死。死の裏側に生、それってそんなに単純?死んだということと生きていないということは同義なのかな。
血圧高い、健康な食事をしない人、酒に飲んだくれてる人は不正解?
医学的に正解とされる100点で生きることを医者は世間に押し付けてきた。減点方式。
○か✗かの完璧に生きる必要ある?白か黒かの間にあるグレーは意外とカラフル。
紅谷先生が、死が曖昧、と考えられたきっかけ?となった経験をはなしてくださった。
・死に目に会うってなんだ?
今まで半年介護してきたり、一緒に過ごした時間があるのに、死の瞬間に会えないことが何なの?
四十九日、生物学的に死んでるけどまだコチラ側にいるような、そういう曖昧な瞬間。
死を医学では敗北にしているけど、この曖昧な期間は、”死ぬ”という期間は豊かなもの。
豊かなものにするための工夫って大事だよね。
・まるで生きてるみたいだ
末期がんのおばあちゃん、認知症のおじいちゃん。息が細くなってきたおばあちゃんを見ておじいちゃんが言った言葉。医学のものさしでは生きている、でもおじいちゃんにとってはそうだはなかった、でもそのものさしのほうがしっくり来ない?
・生きてるうちにお風呂に
呼吸がなさそう、脈も触れなさそう、でもご家族はこうおっしゃった。そこで死亡宣告をする意味ってある?

思ったこと。


あまりにしっくりとくる、医学的にはナンセンスであろう死の感覚。
どれだけ今までの教育で、医学のものさしを刷り込まれてきたか。少なくとも僕の感覚とは、ずれる気がする。だから紅谷先生の経験と、そこから育んだ考えを聞けたことはとても貴重だった。
多分だからといって新たに何かを定義する必要はなくて、曖昧な幅を持って、その人、その家族、その雰囲気に合わせて死がゆらいでいたらそれで良さそう。

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ふと、小池さんの回のときに生産性の話をしていたことを思い出す。世間で言うところの生産性が、その人の価値を決めるかのようにされていること。医学のものさしの中でもそれってあるんじゃないのかな。

限られた医療的資源を最適に分配しなければという条件では、どうしても医学的に、科学的に、社会が得をするようにしなければとなる。移植するなら何歳以下。とか。たしかにその議論は必要ではあるけど、気づかないうちに高齢者の1秒は若者の1秒より価値が薄いかのように考えてしまう、そう無意識下にさせている気がしてきた。そうじゃない!と理性的に、倫理的に考えている時点で、直感的にはそんなものさしを受け入れてしまっていたことにぞっとする。

だけど最近、そのものさしが窮屈で、自分の首を締めている原因なのかもと思ってから、生産性至上主義みたいなものからゆっくり抜け出せているのかもと、ふと、ふと思った。

他に気になった言葉たち。いつか芽を出す気が。


出る杭も出過ぎたら言われなくなる
障害の乗り越え方、優しさだけでなくスパルタ、読唇術
ヘレン・ケラー?

専門医療が溢れている町中はかえって地域医療不足?
死んでから出会ってる(一周忌に参加して)。医学は社会によって役割は変わっていく。

軽井沢風越学園
カリキュラムは子供任せ、年齢で決められないごちゃまぜクラス、自主的な学びを尊重、低学年はほとんど外にいる。チャイムが鳴ったら同じ方向に向かってみんなで帰るのがどれだけ奇妙だったか。学びを自分で作る。


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