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【心理学的考察】R-指定にとっての「HIP-HOP」とは


 Creepy Nutsの武道館公演。私は初日に参加したのだが、Rの放った「ある一言」が耳から離れない。

「HIP-HOPとはなにか」

 その答えが、ある種の完成に到達しようとしている。


 心理療法には、ナラティブセラピーという領域がある。自分の実体験(物語)を肯定的に語り直すことで、心的外傷などを軽減するという精神治療の一つだ。
 しかしこの「語り直し」行為は、ただ無理矢理自分の実体験を肯定的に捉えなおせばいいというものではない。あくまで実体験は偽らずに肯定的な視点から捉え直す必要があり、嘘をついてはいけない。
 例を挙げると、「あの経験で得られたものもある」「あの経験があったから今の自分がある」というような語り直しは心的外傷を軽減するが、「自分には辛い時期などなく、順風満帆な人生を送ってきた」というような語り直しは精神にプラスの影響を与えない。
 これは、あまりにも自己認識とかけ離れた「物語」を創作した場合には、その物語を自らとは切り離されたものとして捉えてしまうことに起因している。
そしてこの性質は、ヒップホップがマイノリティ社会で隆盛した理由を説明していた。


 ヒップホップには、一つ原則がある。それは「ありのままの自分を表現しなければいけない」ということだ。
 ポップスミュージックでは他者の書いた歌詞をシンガーの口から歌い上げることは珍しくないが、ヒップホップにおいて、作詞者はラッパーその人以外あり得ない。全てのラップはラッパー自身が書いており、歌詞を外部委託することは一例も存在しない。そしてラッパー自身も、なるべく等身大の自分を言葉にする。余りにもそのラッパー自身とかけ離れた内容を歌詞にすると「フェイク」として糾弾されるのも、ヒップホップの特筆すべき特徴だろう。


 さて、嘘偽りなくありのままの自分を言葉にする。「リアル」と呼称されるこの性質は、ヒップヒップにおいて、特に「マイナスの経験の表現」として表れやすい。
 そもそもヒップホップという文化が70年代のディスコ全盛期にパーティに行くことができない貧困層が公園で勝手にパーティを始めたことが始まりとされているため、そういった層の自己表現は、ある種のマイナスの経験と切っても切り離せないからだ。
 マイナスの経験も嘘偽りなく表現する。舞姫にて森鴎外は自身の優柔不断さへの後悔に対して「詩に詠じ歌によめる後は心地すがすがしくもなりなむ」と語っているが、愚痴を吐露するという形式が人の心を軽くするということは、多かれ少なかれ一般的な事実だと思う。


 しかしヒップホップにはさらに、「ボースティング」という性質もあることが、この精神作用をより強固足らしめている。
 ボースティングとは、直訳すれば自慢だ。ことヒップホップにおいては、歌詞の中に自分を大きく見せようとする表現を入れ込む行為や、稼いだ金で高額のアクセサリーや衣類を身に纏う行為を指す。
 このボースティングにおいても誇張が過ぎれば前述のように「フェイク」との糾弾が入るが、例えば「今見下してる全員の手のひらを返させてやる」というような未来への大言壮語などは、一概に「フェイク」であると糾弾しにくいためかヒップホップでよく見られるボースティングの一つだ。
 そして実際にラップで成功したラッパーは、その成功を謙遜などせず、「あのマイナスの過去を乗り越えて今ステージで歌ってる」というようなボースティングをする。稼いだ金で着飾り、成功をアピールする。
 「貧困に苦しんでいたマイナスな時代もあったが、その時に培ったハングリー精神と思想で歌詞を書き、これほどまでにプラスな今に至った。」
その様はまさしく、マイナスの実体験の肯定的な捉え直しと言える。


 嘘偽りない「リアル」な歌詞で、不自然でない程度に「ボースティング」をする。
 これは冒頭で述べたナラティブセラピーと全く同じ工程だ。
 心的外傷の原因となるような実体験を、あくまで自分との乖離が少ない範囲で肯定的に語り直し、その症状を軽減する心理療法。ヒップホップは、まさしくナラティブセラピーの一種だった。
 心的外傷やマイナスの経験を負いやすいマイノリティから隆盛した文化というのも頷ける話である。彼らはある種の「救い」を必要としていて、それはヒップホップがもたらせるものだったのだ。
 そうした性質も、最初から存在していたわけではない。前述のようにヒップホップの起こりはただのパーティであり、楽しむための曲がほとんどだった。だが文化には新陳代謝があり、生物の進化と似たような自然選択がある。「リアル」で「ボースティング」をする特徴を持った曲のみが聞き手に選ばれ、その結果こうした特徴が根付いたのかもしれない。
 ともかく、現代のヒップホップがナラティブセラピーという側面を帯びているのは確かなようだ。そしてそれこそがヒップホップの興隆の原因の一つであると推測できる。

 私は以上の仮説を、高校の卒業研究と、前期心理学の期末課題にて得た。
 そしてその仮説が正しかったということが、本日のCreepy Nutsのライブにて証明された。

 曲の合間、たしか“未来予想図”を歌う前のMCにて、R-指定はこのような話をした。
「ヒップホップというのは、人によって捉え方が違うと思う。ただの音楽ジャンルかもしれない。成り上がりの武器かもしれない。エンターテイメントかもしれない。文化かもしれない。色んな捉え方があると思う」
「だけど俺にとってヒップホップは、【セラピー】でした」
「これがあったから俺は、自分を保つことができた。夢を持つことができた。前を向けた」
「ヒップホップがなければ今の自分はないというような、【セラピー】でした。それが俺にとってのヒップホップです」


 まさしく、セラピーという単語が使われた。ヒップホップはセラピー。私が前期に散々論文を読み漁って考えた内容と同じことを、日本一のラッパーであるR-指定が口にした。本日の武道館ライブで心が動いた瞬間は数多くあれど、この瞬間は、私の人生を左右するものだと思う。
 私自身ナラティブセラピーに救われた。私の場合は単純に小説の執筆やラジオという形だったが、それでもヒップホップと同じナラティブセラピーに救われた人間の一人で、この力によって救える人はもっとたくさんいると思っている。よって今の私の一先ずの目標は、ヒップホップを広めることだ。
 ナラティブセラピーの中でも特にヒップホップを広めたい理由は、単純に好きだということだけではない。例えば「セルアウト批判」の性質などもその理由の一つだ。
 ヒップホップでは、大衆ウケのために自身の音楽性を曲げることはセルアウトとして批判されるのだが、これは社会学のメディア論においても指摘された、マスコミの問題点の解決に繋がる性質と言える。メディアというものは営利目的になって大衆ウケを狙うようになると、より注目の集まる情報だけを、注目を集めるように切り取るようになり、大衆に正しく情報が伝えられなくなるが、ヒップホップの持つ「セルアウト批判」は、ちょうどこの問題に対抗する手段の一つになるのだ。
 このようにヒップホップは、心理学の側面だけでなく、社会学の側面からも合理的だと言える。ただの音楽ジャンルとして捉えるには惜しいほど理にかなっていて、奇跡的なバランスで成り立っているのがこのヒップホップだ。

 流石に、日本でここまで下火なのはもったいない。和を以って尊しとなすような、我が強い自己表現を嫌う農耕民族的な国民性ゆえに日本では流行りにくいことはわかるが、しかしもう少しくらい広く認識されてもいいと思う。Creepy Nutsは意欲的に楽曲を制作し、セルアウトすれすれながらも「リアル」を突き詰めた曲を出し続けて今日の武道館ライブに至ったのだが、そうしたラップ以外のアプローチによって取り込める層もあると思う。例えばそれは論文や小説などの非音楽的なアプローチであり、文字のみによる表現だ。今日のライブのR-指定の発言から私の考えの裏付けが取れたこともあり、実験的に、まずはこの考えを文字にしてみようと筆を執り、この投稿に至る。


 HIP-HOPに関して、書き足りないことはあまりにも多い。

 またいつか。

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