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信州上田という土地に取り憑かれた男(自己紹介)

はじめに

自己紹介がてら、信州上田と私のつながりと、この土地への想いを簡単にまとめておこうと思う。

まず、信州上田とは、人口15万人強の長野県で3番目に大きい都市であり、県の東側、県内では東信と呼ばれる地域に存在する。

私は母の実家である長崎県長崎市で生まれはしたが、そのまますぐに父の実家である上田で育っているため、ほぼ上田人。

だがしかし。
多くの方と同じで、上田で育ったからと言って、幼いころから上田に興味があったわけではない。

小学校、中学校は惰性で過ごし、高校生ではアルバイト三昧で、大学進学など考える余地もなく地元の建設会社に就職、その後も気の赴くままに転職を繰り返す平凡極まりない人生。

そんな凡人が、なぜ今、信州上田に取り憑かれているのか。

取り憑かれたのは25歳のときだった。

それから数多の物語が生まれて今に至るが、その一つ一つはそれぞれに記事にしていくとして、まずはきっかけだけ記録しておこうと思う。

観光地への就職

大学進学を選択しなかった私は、若いうちに出来るだけ多くの経験をしておきたいと思った結果、1年に1度転職するという、当時ではなかなか理解を得られないスタイルで人生を満喫していた。

そのときに選択した一つの職業が「ホテルマン」だったことが、今、観光について深く考える大きなきっかけになったのは間違いない。

上田市からほど近い、世界に名を轟かせる観光地といえば「軽井沢」だ。

私は無謀にも軽井沢の超有名ホテルに直接電話をし、サービス業務での採用を希望して、半ば強引に面接を受けた。(人手不足の時代だったw)

当時の職歴は建設業、車の営業、建築の営業などがあり(アルバイトを入れればさらに増えるが)、取得していた資格は建設現場で役立つものばかりだったので、履歴書を見た面接官は、サービスではなく施設管理での採用を強く勧めてきたのは言うまでもない。

しかしながら、私はホテルマンを経験したくて面接を受けていたので、譲ることなくサービスでの希望を貫く。惜しまれつつも、ベルボーイの部署にて採用をいただけた。

観光地の裏側

当時24歳。ベルボーイとしての仕事はとても楽しかった。

ご来訪いただいたお客様の第一印象となるポジションであり、思っていた以上にやりがいのある職業だった。

到着したお客様のお荷物をお預かりし、フロントでのチェックインからお部屋までのご案内を繰り返す日々。毎日同じ接客を繰り返すだけの業務だったが、ひとつひとつが新しい出会いであり、自分のおもてなしの言葉に対して返してくれる反応もすべてが新鮮で、観光地とはなんと楽しい職場なのだろうと心から感動したのは、今でも忘れることのない貴重な思い出だ。

さて、そんな楽しい職業であるベルボーイとして、最善の接客をするために重要だったのが毎日の情報チェックである。

その日にご予約されているお客様の特性を捉えるために、当日に行われるホテルでのイベントはもちろん、ホテル周辺(ほぼ軽井沢内であるが)で開催されているイベントのチェックをする。

お客様をお迎えする際に、何を聞かれるか、どんなサービスをお伝えすれば良いのかを事前にシュミレーションすることで、スムーズなご案内を行うことがともて重要だった。

当時はチップをくださるお客様も多かった(今は定かではないが)ので、ご案内を気に入っていただけるとチップをはずんでくれる、そんなモチベーションもあり、誰よりも人気のあるベルマンになりたいと、情報収集だけは手を抜くことなく日々の業務をこなしていた。

この時、ふと、重要なことに気付いたのだ。

ホテルには、軽井沢の一日の出来事がほとんど情報として集まっているということ。

何か重要ですか?とお思いのそこのあなた。

とても重要な事なのだ!

お客様を本気でおもてなしするためには、相手のすべてのスケジュールを把握し、タイミングを合わせて最適なサービスを提供することが必要となる。それがホテルの楽しみ方であり、楽しませ方であると私は思っている。

気の利いたサービスを提供するためには、とにかく情報が必要なのだ。

お客様より先に、どれだけ必要な情報を揃えておけるか。これに尽きる。

その情報が、一方的にホテルに集まってくる状況がある。集めに行かなくても、様々なセクションから情報を送ってきてくれる。

なんて素晴らしい環境なんだ!

観光とは、なんて素晴らしいシステムなんだ!

もちろん、その情報をどう活用しているかは個々のベルボーイの力量によって異なるが、少なくとも、お客様をエスコートするために最低限必要な情報が集まっていたのは事実であり、多くのお客様を楽しませられていた軽井沢という観光地のポテンシャルを実感した1年間だった。

軽井沢と上田の比較

ホテル勤務が1年になろうとしていた時、日本では「平成の大合併」という一大イベントが起きていた。

県内3番目の都市である上田市は、周辺の丸子町、真田町、武石村との合併が決まっていたが、同時に、当時の市長が「観光をリーディング産業に!」というスローガンを打ち立てていた。

観光地というシステムに心地よさを覚えていた私は、上田市で観光が成立するのであれば、地元で役に立ってみたいという想いが芽生え、上田市の現状を探った。

しかし・・・

多くは語るまい。

しかし、しかしだ。もはや軽井沢と比較する以前の問題であった。

お客様に情報を伝える、どころか、地元の人が身の回りで何が起きているのかに対してあまりにも無関心であり、観光どころか、地域商業が成立していないイメージを受けたのは、今でも鮮明に覚えている。もちろん、合併によるそれぞれのまちの特性すらも認識していなかった。

当時の上田市は、行政が主体となって観光を盛り上げようとする、どこにでもある市町村の一つだった。もちろん、主体となって精力的に仕掛けを行っていた方々もいらしたが、あまりにも現場との溝が深かったように思う。

この現状を目の当たりにした私は、なぜか、少しだけ上田に興味を持ってしまった。

もし、上田市が軽井沢と同じだけのシステムを手に入れることができたら、一体どんなまちになるのだろうか?

多くの人が無関心で放置している上田市は、興味を持って調べたら、一体どんな魅力が眠っているのか?

一度気になってしまったら、気が済むまでやってみたい性格の私は、なんの未練もなくホテルを退職し、上田に戻ってアルバイトをしながら、上田の現状を探る日々に突入することになる。

当時25歳。

信州上田という魔性の地域に、自ら足を踏み入れた瞬間だった。

信州上田に取り憑かれた結果

ここからは自己紹介で語るには少々難しいので、一つ一つを記事にして、上田市の観光における事例としてご紹介していこうと思う。

それにしても、毎年仕事を変えるほど浮気性だった私が、信州上田に興味を持ってしまったが最後、15年もの間、まったく飽きることなく、次から次へと地域資源を活用した企画を実施することになろうとは、当時は想像もできなかった。

現在40歳を迎える直前ではあるが、この15年間で取り組んできた大きな出来事だけリストでご紹介し、自己紹介とさせていただく。

あまりにも濃密な時間を過ごし過ぎて、細かい企画は書ききれていないが、振り返ると吐き気をもよおすほど苦難の連続だった。だからあまり思い出したくないのも事実。

しかし、取り組んでいる最中は最高にアドレナリンが出ていたことは間違いない。多くの人と共有してきた興奮と感動は、今の自分を形成する重要な役割を果たしている。

地域を活性化させたいと願う多くの人が悩むであろう様々な出来事を、私自身の体験談から何かのお役に立てるように、出来る限りここで記録していこうと思う。

あまり期待はせずに、私の経験談にお付き合いいただけると嬉しい。

上田ブランド研究所
所長 池松勇樹

主体的に取り組んだ主な事業

・「Music Festival in UEDA」の企画・実施
・地域密着型フリーペーパー「うえだNavi」の発行
・アニメ映画「サマーウォーズ」を活用したアニメツーリズム
・ご当地グルメ「美味だれ焼き鳥」の発掘と活用
・「戦国BASARA」「戦国無双」とのタイアップ企画の実施
・初音ミクとのコラボ企画の実施
・ご当地ヒーロー「六文戦士ウェイダー」の企画広報支援
・上田城を舞台にしたグルメイベントの企画・実施
・「全国やきとリンピック in 信州上田」の誘致と実施
・上田城における真田茶屋のプロデュース
・真田REDアップルのブランディングプロデュース
・「Co.LABO SHOP 柳町屋」の運営
・北国街道柳町の観光振興プロデュース
・上田ブランド研究所の設立
・大学生の研究支援事業の実施


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