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映画版 AKIRA学・第1回 創造ミームとしての「AKIRA」-2000年代の少年漫画に見る、健康優良不良少年の姿


全国一千万人のAKIRAファンの皆様、こんばんは。少し学業の方が立て込んでおりまして、遅くなってしまいました。申し訳ありません。

ちょうど一週間前、AKIRAのドルビーシネマ公開が決まりましたね! 筆者も大変楽しみにしております。必ずや初日に観に行きます。午前中、名駅のミッドランドシネマで「甲斐っぽい緑色のトラッドコーデをしたチビ」か「ピーキーすぎる赤マスクをしたチビ」がいたら、僕かもしれません。健康優良限界オタクをする為に一日六度は手洗い・うがいを行っています。このご時世です、皆様もどうぞ健康にお気をつけてドルビー体験へ向かいましょうね。

本日は予告と相違なく、筆者が以前に書いたレポートを改訂させていただいた、漫画界のミームとしての「AKIRA」についてです。それでは、以下本題です。


1、 AKIRAはミームなる存在なのか?

 作中で呼ばれるアキラは、広義として超能力のことを指しています。コミックス版では実際にアキラという少年が登場しており、特定個人の名のようでありながら彼以外の能力者も「アキラの(ような)力」と表現されます。「アキラ時々力」がコミックスでの意味配分というわけです。

 これに対し、映画版で登場する「アキラ」は瓶詰めで冷凍保存されていた彼の臓器や神経系です。クライマックスでそれらを保管する容器が割れ、人の形をしたアキラが現れはしますが、やはりここでも「肉体が修復され生きた人間に戻っている」という意味合いは含まれず、単に生死を超越した彼の覚醒のメタファーであると思われます。目覚めたアキラは生身の人間らしい行動は見せず、ただ強大な力でネオ東京を破壊し、鉄雄をこの世界から連れ去ります。
 また、映画版「AKIRA」では、超能力を徐々に強めていく金田の友人「鉄雄」、及び彼の持つ力そのものが民間人に「アキラ」と呼ばれ、ガールフレンドにそのことについて問われた鉄雄は「あいつらはぶっ壊してくれる奴なら誰でも良かったんだ」という旨を話しています。このことから、アキラとは特定の人物というよりは少年少女が持つ物理的な超能力、その破壊力、ならびにその力を巡ってどれだけの物事が変化や崩壊を遂げていくかという、いわゆる「影響力」でもあると考えられます。

 ネオ東京が崩落し、鉄雄は最後にはアキラの力とぶつかり、本人すら制御できない強大な力の中に取り込まれ、新しい宇宙の始まりとなって光の中に消えて行きます。
 作中でこれだけの大きな力を見せた「アキラ」ですが、漫画作品としての「AKIRA」が今、次元の垣根を越えたかのように私達が生きる現実に与えている影響は、どれほどのものなのでしょう。セリフ「さんをつけろよデコ助野郎‼︎」はネットミームとして広く使われていますが、それだけではありません。

 ここからは、最初に作者本人が「AKIRAに影響を受けた」と公言している漫画を一作品、次いで「AKIRA」との共通点が色濃く読み取れる漫画を二作品、大手コミック雑誌「週刊少年ジャンプ」の作品から取り上げ、現代日本の少年漫画カルチャーに受け継がれるミーム(=仮想遺伝子、次世代へ模倣されていく文化)としての「アキラ」について考察していきます。



2、2000年代のアクション漫画に見る、健康優良不良少年の姿

・2-1 ONE PIECEの形式に息づく「AKIRA」

 今や国民的な少年漫画の一つであり、週刊少年ジャンプ(集英社)にて1997年から連載されている海洋冒険漫画『ONE PIECE』。単行本内では話と話の間に「SBS(しつもんを・ぼしゅう・するのだ)のコーナー」というものが設けられ、本編のストーリーや小ネタ、作中のキャラクターや作者である尾田栄一郎氏のプロフィールについて、読者が質問のハガキを送り、尾田氏がピックアップして答えていくという、平たく言えば読者と作者の交流の場とされています。

 単行本95巻の130ページにて、一人の読者が『ONE PIECE』の作中にフキダシで書かれるセリフの特徴について『みんな「知らねェ」とか「いらねェ」とか、どうしてカタカナの“ェ”を使うんですか?』と質問を送ってきたのに対し、尾田氏は次のように述べています。
『これは簡単!「AKIRA」っていう漫画があるんですよ。(中略)その漫画の中でこういう小文字の使い方をしてあって、中学生くらいの時ですけど、影響うけました。ひとクセあってカッコいい〜‼︎って思って。』
 尾田氏はこの他にも「俺をおれと表記する」「キャラクターが感謝を伝える場合には、サンキュー!等ではなく必ずありがとうと言わせる」等、セリフの表記に対して人一倍強いこだわりを公言しています。そんな彼のこだわりに『AKIRA』が強く影響を与えていたことが、つい最近(95巻は2019年12月31日に第一刷)になって明かされました。遡って24巻には後の敵キャラクター・黒ひげによる「人の夢は!!!終わらねェ‼︎‼︎」という名言がありますが、この場面にも小さい「ェ」が使用されています

 表記以外の点では、恐らく意図的に似せた設定では全くないでしょうが、暴走族のリーダーである金田を主人公に据えて描いていく『AKIRA』と、海賊王を目指す立場でありながらもルフィ達が数多の国を救う為に戦う『ONE PIECE』と考えれば、反社会的な立場のリーダーが主人公、という共通点が見えます。また、『ONE PIECE』の中盤から主に出てくる、気迫で相手を怯ませたり、少し先の未来を見たりすることができる「覇気」という無形の能力は、『AKIRA』の超能力そのものにかなり近い戦闘技能だと考えることが可能でしょう。



・2-2 殺せんせーに見え隠れする「AKIRA」的最強進化論

 『暗殺教室』は2012年から2016年にかけ、『ONE PIECE』と同じく週刊少年ジャンプで連載されていた、学園もののコメディアクション漫画です。タイトルこそ物騒ですがタッチは非常にポップで、等身大の中学生のキャラクター性と「離れ校舎にて、自分達の担任を勤めている賞金首の怪物を狙う」という特殊な設定を巧みに合わせ、非常に親しみやすい作品であります。

 この賞金首、殺せない先生こと殺せんせーが狙われる理由について。単純に危険な生き物であるからです。月の7割をその力で蒸発させ、「自分を殺せなければ来年3月に地球を破壊する」と宣言し、マッハ20で世界各地を飛び回るという設定のみを文章で読めば、明らかに危険生物です。
 が、注目すべきはその容姿です。丸顔に点が二つ、とでも表すべきシンプルな目と大きな三日月型の口、丸みを帯びた無数の触手、全身真っ黄色のボディの上に着込んだアカデミックガウン。「ヌルフフフ」という独特な笑い声を発したり、特定の薬品を飲むことによりスライムのように溶けて素早さを増したり、雨の日はふやけて頭頂にキノコを生やしたりと、とても強そうなモンスターには見えません。しかしふと冷静に考えれば、確かにこの殺せんせーがマッハ20の最強生物なのです

 『AKIRA』の話題に戻し、比較して見ていきます。

 作中で超能力が目覚めた鉄雄は進化を続け、髪を逆立て、瓦礫となったネオ東京に国を作り、思うがままに力を破壊行動に使います。ここでコミック5巻には、「国民」の集会の余興として月の一部を破壊する、というシーンがあり、どことなく前述の「月を破壊した最強生物」に似通った、ある種の象徴性を感じます。そして最後には強くなり続ける力を制御できなくなり、膨れ上がった肉塊のような、軟体生物のような奇妙な姿へと変わって行きます。

 人間の中に人間を超えた巨大な力が芽生え、惑星を破壊できるほどになりピークへと達した時、最強生物となった生き物の姿は限りなく軟体である。一般的な銃弾や刃物は効かず、特殊な成分(『AKIRA』の場合はレーザー光線。『暗殺教室』でも殺せんせーには一般的な武器が効かず、特殊な物質でできた銃弾とナイフで対抗します)でしか弱らせることはできない。以上の二点を仮説として『暗殺教室』と照らし合わせた時、二つの最強生物は驚くほどに共通する特徴を持っていたのです。
 作者である松井優征氏が『AKIRA』に影響を受けた、と明言している情報は無く、あくまでこの二つは「模倣した/された作品」としてではなく、最強生物ヴァーサス人間、という構図になった時に「力」が辿り着く最終形態について似通った部分の見受けられる二つのSFアクションコミック、という関係性に過ぎません。

 鉄雄は暴走の末に、殺せんせーは生徒からの刃により、小さな光の粒となってこの世から消滅します。残された人物が光を掬い上げるように手を翳し、涙を浮かべるシーンはどちらにも描写されていますが、『暗殺教室』で光が消える瞬間は「紛れもない殺せんせーの死」を表しているのと対照的に、『AKIRA』で金田の手の中に消えた鉄雄の光は「新しい宇宙の誕生」であることが示唆されています。



・2-3 人が鬼になる時、仲間がラスボスとなる時

 ここ数年で、爆発的なヒットを見せたジャンプの漫画といえば『鬼滅の刃』が真先に挙げられることでしょう。
 2020年3月末、23日に発売された週刊少年ジャンプ本誌に載っている199話にて、本作品の最終ボスである鬼舞辻無惨の「肉の鎧」と呼ばれる最終形態が一部で「『AKIRA』のパクリだ」と騒がれているのを目撃したことから、さっそく両者を見比べてみました。
 『AKIRA』に出てくる鉄雄の暴走した末の肉塊姿は、溢れ出るエネルギーを抑えきれなくなった「攻撃」の形態です。対して無惨の肉の鎧は、鬼の弱点である太陽光から身を守り、何としても生き長らえようとする「防御」の側面を主とした理性的な変形のようです。
 どちらも血管が浮き出、膨れ上がった肌をした赤子のような、ぐにゃぐにゃとした奇妙な姿で、一目で恐怖や嫌悪感を覚えさせるフォルムです。鉄雄は意図せずガールフレンドのカオリを、無惨は最後の抵抗として主人公の炭治郎を、膨張する肉体に巻き込んでいくという点もとても印象的です。
 非常に興味深いことです。「パクリ」などと早々決めつけるのは非常に勿体ないことですから、筆者も鬼舞辻無惨について調べました。その中から、あの醜悪な形態に至り鬼殺隊に倒されるまでに歩んできた過去を中心に、結果的に主人公と対立することになってしまった鉄雄との共通項を探す作業に持ち込んでみます。


 鬼舞辻無惨は虚弱体質で生まれ、「彼が少しでも長く生き長らえるように」と考えた医者に、今までに無い試作段階の新薬を処方されたことにより体に変化が生じました。日光を浴びられなくなると同時に常人を超えた強靭な体を手に入れます。それこそが『鬼滅の刃』で肝となる敵役、人喰い鬼の原始の体であったそうです。
 そうして彼は何千年も生きながら、仲間である鬼を増やし、その中から太陽を克服できる鬼、もとい昼間の行動が制限されるという屈辱を克服する術を見つけ出そうと、配下を使って動いていきます。

 『AKIRA」との対比です。映画版では鉄雄と金田は共に両親がおらず、養護施設で出会い、育ちました。(原作では金田の家族については一切触れられていませんが、鉄雄には家族がいます。ですが血縁ではなく養子で、なおかつ幼少期に「実の子でもないくせに、いつまで泣いているのか」といった旨の愚痴を養母にぶつけられており、その後また別の所へ養子に出されたようです)
 リーダーシップに長け、喧嘩も強い金田に、鉄雄は大きな劣等感を向けていきます。また、年齢差がさほど顕著でないにも関わらず、自分を弟か息子のように過保護に扱う金田に、日ごろから不満を抱いてもいたようです。その後、超能力を手にした全能感で鉄雄は人が変わったようになり、臆することなく暴走を遂げますが、金田との対決の際は「悔しいか、金田ァ、悔しいってのがどんな気持ちかわかったかよ」と今までの劣等感を引きずったかのような発言も出ています。

 鉄雄が破壊生物となったのは、超能力を得た瞬間ではないと考えます。
 この力で今までのコンプレックスを全て払拭してやりたい、力づくで見返したい、その為なら世界がどうなろうと構わない。そんな感情論に身を任せ、仲間に危害を加えることさえ厭わなくなってしまった時だと言えるでしょう。
 コンプレックスという言葉では包括しきれない部分もあるでしょうが、無惨が悪役たる理由も単に人喰い鬼になってしまったからではなく、自分の弱点を埋める為に他を犠牲にし、力を以て使い捨ての配下を増やし、人を無慈悲に喰らい、気に入らない鬼は殺すという行いを繰り返すことにより、真に恐ろしい存在となったものだと考えられます。


 ここまで力の暴走により世界を脅かし、最終的に主人公と敵対する存在を「悪役」として、いかに力の使い方を間違えてしまったかを説明しました。これよりは逆に、「主人公達が彼らに向かって言い放った言葉」の善し悪しについても問いかけ、これを2-3のまとめとします。

 生まれた時からただ生きることのみに執着し、故に邪悪な暴走を続ける無惨に向かって炭治郎は「お前は存在してはいけない生き物だ」と断言します。当然、家族を鬼に殺された炭治郎にとっては、敵の過去など知る由も汲む余地もありません。が、敢えて無惨の生い立ちとこの台詞のみにピンポイントを当ててみるとすれば、炭治郎の選んだ言葉は彼の意図する以上に残酷な言葉ではあります。

 映画「AKIRA」に関してはもう少しわかりやすいでしょう。幼い頃より金田の隣で膨らませ続けてきた劣等感を力に乗せて暴発させ、瓦礫の山に立つ鉄雄。その足元に駆けつけた金田が喋り出した台詞は、良く言えばキャラクターが一貫しており、悪く言えば間違いなく、再び鉄雄の劣等感を刺激し、更なる暴走を誘発するのは確実である言葉でした。
「俺ァ また心配しちまったぜ? またベソかいて泣いてんじゃねェかと思ってよ」
 少なからず金田の存在・言動・行動に抑圧されていたから、といっても、鉄雄の非道な行いは正当化されることはありません。また、ここで金田が白々しく「参ったよ」などと低姿勢に出てもやはり、鉄雄が納得することはなかったと推測されます。

 しかし、金田もまた「リーダーシップ」という強い影響力の使い方を誤り、最後まで過ちに気づけなかったことで世界を崩壊させてしまった一人なのではないかと、私は考察しています。




今回の最後に-アキラはまだ俺達の中に生きてるぞ!


 独断混じりの選書ではありますが、「AKIRA」の諸要素が2000年代(ONE PIECEは1997年〜の連載でしたが)の漫画界、及び漫画を原作としたメディアミックスカルチャーに大きく台頭している3つの少年漫画に通づることについて展開させていただきました。今回の考察はここまでとなります。

 視覚的な部分に訴える「AKIRA」、架空の生物の進化論としての「AKIRA」、倫理観を考えさせられる「AKIRA」、何もこの3つの要素だけでも、3つの作品だけでもありません。
 歳月と共に漫画の流行り廃りも、ストーリー・作画共に進化を遂げていきます。それは目鼻の描き方などほんの些細なパーツかもしれませんし、常識を覆すような大きな仕掛けかもしれません。時には一見「もう漫画界も終わりなのかもしれない……」と考えたくなるような、ナンセンスな流れであったりもするのでしょう。昔の作品は良かった、最近の漫画界は変わってしまった、と言いたくなるかもしれません。
 ですが、世代を超えて先人の名作漫画に通ずる要素を持つ新たな作品はこの通り偏在します。また、そうした作品が作られて届くのを待つばかりでなくても良いのです。読者自ら作品の持つ魅力的な共通点を探る、ということも可能であることに、筆者も書くうちに気づかされました。

 「パクリ」で済ますものではなく、「そうあって欲しいという祈り」で終わることもなく、漫画史を伝う一本の流れを手法を凝らして可視化した時、我々は根拠を持ち、自分なりに「力」を使った学習の成果としてあの健康優良不良少年の台詞を口にできるのです。

「アキラはまだ俺達の中に生きてるぞ!」



以下引用文献
・大友克洋(1984〜1993)『AKIRA (1)〜(6)』講談社
・尾田栄一郎(2002)『ONE PIECE 24』集英社
・尾田栄一郎(2019)『ONE PIECE 95』集英社
・松井優征(2012)『暗殺教室 1』集英社
・松井優征(2016)『暗殺教室 21』集英社
・吾峠呼世晴(2019)『鬼滅の刃 15』集英社
・週刊少年ジャンプ(2019〜2020)より『鬼滅の刃 第181〜200話』


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