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はたらくの価値観がゆらいでいる、という話

自分のなかで「はたらく」ことの価値観が揺らいでいる。

これまで「はたらく」とは、お金を稼ぐ手段だった。23歳、新卒で入った会社では、あまりの学生気分と社会との差に歴然とし、自分を成長させたい、と躍起になった。そこで、ビジネス書や自己啓発書を貪り読んだ。ビジネス書なんて、まったく知らないジャンルの本だったのに。

自己啓発書の多くはこう諭してくる。自分のつよみをお金に替えろ、知識だけでなく教養もビジネスに役立つ、価値を生み出せ、それがお金になる…云々…云々。

それは正しい、発想なのだと思う。

その言葉をきくたびに、あぁ、自分のつよみってなんだろう? 社会にどんな価値が生み出せるか? と自問自答してきた。そうして結局はいきづまる…。

しかし、ここにきて、「価値をお金に換える」は正しいのだろうか、という考えが湧き上がってきている。いや、お金に換えてしまって良いの?と。

移住をした軽井沢で、学校の保護者やスタッフの方々や、地域の農業をベースにしたコミュニティの方々と、週末の時間の多くを過ごすようになってきて、ふと、気づくことがある。

それは、「お裾分け」の多さだ。

僕も妻も、お知り合いに会うたびに、野菜やお菓子やお下がりの洋服や、なんやかんや、色々といただいてしまう。しかもそれらは当然のことながら、「手づくり」なのだ。

これだけお裾分けをいただくと、お返しをしなきゃいけないのだけど、そこに至って、はたと気づく。自分は何がお返しできるだろうか?と。そして考えは飛躍する。市場にでないと価値が出ないようなもの(それはきっと商品だ)を作ることがばかりが、仕事だと思い込んでいなかっただろうか…。

先日、とあるカフェで、弾き語りのライブをしてくださった方がいた。そう、それも「お裾分け」もひとつ。自分の得意が誰かの役にたっている。お金に換わるかどうか、本人はおそらく気にしていない。そこにあるのは、ご縁を大切にして、その場で何が喜んでもらえるか。その「他者の視点」ではないだろうか。

そういえば、お金持ちの人は、とにかく御恩を大切にすると聞いた。自分が困ったときにしてもらった御恩を返すことばかりを考えていると。なにかつながるものがあると思いませんか。

東京に住んで、自己成長やスキルアップのような文脈には少し疲れてしまった(年齢的にも)からかもしれないしれない…。

「はたらくってなんだろう」

今、自分に問いかけるとすれば、お裾分けができるものをつくりたい、ということだ。

#はたらくってなんだろう

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