「便利」と「効率」を手放せば、見えてくる世界がある

東京との違いで、話題にあがるのが地方の「不便さ」についてだ。

たしかに「コンビニが閉まるのが早い」し、「タクシーもつかまりにくい」。バスの本数は1時間に1本だったりするし、乗り継ぎ悪くて、30分待ちはザラだ。「職住接近」という言葉がもてはやされたように、移動時間を極力ゼロに近づけ、その分、仕事に時間を費やすことが良いという価値観の人には耐えられないだろう。

一方で、効率を落とすことで、見えてくる世界があるのも事実だったりする。

たとえば、東京に住んでいたとき。アプリを叩けば、たいていのことは、家を出なくてもすぐに手に入った。タクシーを呼ぶ、夕食を運んでもらう。掃除をしてもらう…。するとどうなるか。すべての行為が「外注」になる。お金を払えば、解決できるものになる。

しかし、東京を離れると、それは「当たり前」のことではなくなる。

東京では当然のように手厚かった、「ファミリーサポート」も、軽井沢では立ち上がったばかりで人材が足りない、ということになる。すると、サポートを受けたい人が同時に「助ける側」にも登録することになる。お互い様、ということだ。

そう、スマホとお金を介しても解決できないとき、人はつながろうとし始めるのだと思う。

ないものをなんとかしようとする。

そのときに、人のつながりによって、個人に役割が生まれる。

それは助けられるだけではなく、手を差し伸べる側にもなれる。

娘が通う学校の保護者掲示板も、情報交換やサポートのコミュニケーションで溢れているし、地域同士でつながろうとする力はSNS を見ていても顕著だと思う。それが自然に起こる。それは不便で、効率が悪いことからはじまっているからだ。

結局、お金で解決できる社会は、お金の多寡だけが、ものさしになる。そこに、想いや共感は入っていない。なぜなら、「お金」だけにした方がシンプルで効率的だから。こうして、(おそらく)人類は、お金をお金だけで測れるように仕向けてきた。普段のコミュニケーションがなくても、ベビーシッターが頼めて、食事を持ってきてもらえるようにした。

でも、少なくない数の人が、効率を上げていくことが「しあわせ」や「生活の質の向上に繋がらない」、ということに薄々気づき始めている。

それは、「お金」というものが、不要と切り捨ててきたものに、本当は価値があったのだということに、気がついてきたからなのだと思う。

まずは、効率や便利を捨ててみる。

きっと、その不便さの中から立ち上がってくるものがあるだろう。


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