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SF日記:『千年後の世界』 海野十三

SF作品の感想を私見たっぷり濃厚に語るSF日記。最初にあらすじ、後半に感想を書きますのでネタバレに注意してください。現代を読み解く時、多くの人はデータやエビデンスに当たりますが、それらは過去を表しているに過ぎません。そこで未来の声として、将来起こりそうなことをリアルに描くSFの想像の力を借りてみようと思うのです。

あらすじ

三千六百年の冬、科学者フルハタは1000年の冷凍催眠から目を覚ました。この冷凍棺桶は外からしか開けられないようになっている。しかし目を覚ましてから7日間経っているが誰からの応答もなかった。169日起きるのが遅かったせいかもしれないが、フルハタの覚醒は電波で伝わっているはずだった。

そこにとうとう棺桶を開けるものが現れた。それは19,20くらいの裸の女性であったことがフルハタを驚かせたが、実際は903歳であることがそれに輪を掛けた。

そんなことが可能になったのは、900年前に死が克服されたからで、すべての病気の治療法が判明し、衰えた臓器などは人造肉によって再生されるようになったからだった。手術跡がないのは人造皮膚を移植しているからで、だから裸でも恥ずかしくないのかとフルハタは合点がいった。

美容整形も行き着くところまで行って、美男美女しか存在しなくなった。物質の原始崩壊によってエネルギーを得ているので、枯渇することがなくなった。文明は人類の悩みを全て克服したように見える。

しかし人間が暮らしているのは地下500メートル。地上には許可なく出られない。そして彗星が地球に迫っていて木星脱出の真っ只中。しかも、火星とは戦争中で…

感想

未来は突然到来する

「洞穴から外へ出てみると、かつて科学雑誌に出ていた一千万年後の世界という絵そっくりの街があらわれた。」

2600年に冷凍睡眠を開始し、3600年に目を覚まして進化した街を見たフルハタの感想がこれである。1000年寝て起きたら、感覚的には1000万年進んでいたということだ。

これは現代人にもよくわかる感覚かもしれない。iPhoneが登場したのが2007年であるが、スマホ以前と以後では同じ21世期とすらも思えない。

こうやって時代はある局面において急速に飛躍するものだ。Windows95が25年前だが、今のテクノロジーを思うと100年前位な気がする。その逆もしかりで、Windows95でPCを固まらせてた人が、今の時代を見たら、何年先の未来と感じるのだろうか。

不老不死はそこまできている

フルハタが目を覚ました千年後の世界は人間が死を克服していた。今現在、不老不死は科学界を賑わすテーマであり、Googleやピーター・ティール氏などもこの分野に多額の出資をしている。今世紀中には不老不死が可能になるとしたら、あなたや、あなたの隣にいる人は、もう老いや病によっては死なない人なのかもしれない。なるほど、事がスムーズに運べば、近いうちに世界は千年先に進む可能性を秘めている。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏のホモデウスのテーマは、戦争・飢餓・疫病を克服した人類が次に目指すものとして、不死・幸福・精神性の向上(僕は英語で読んでいるので、訳が日本語版とちがっているかもしれません)をあげている。本書でも指摘がある通り、現代社会では自殺が他殺の死者数を超え、飽食は食糧不足よりも多くの命を奪い、病気で早くして亡くなるよりも、高齢によって命を終える人が増えた(高齢者が最後の最後に病気で亡くなる事と、老衰の根本的違いを分けるのは難しいことは補足しておこう)

「無知の知」ウイルス

人類が不老不死という新たな地平に向かおうという2020年に、疫病が世界に猛威を奮っているというのは何という因果だろう。

第一次世界大戦時に発生したスペイン風邪は少なく見積もった試算でも当時の世界人口の1%の死者数を出しているから、それと比べると現在のコロナウイルスの被害はまだまだ及ばない。

毎年のインフルエンザにもまだ遠く及ばないことを指摘する人もいるが、人々を恐怖させているのは、未知であるのは明らかだろう。知らないから恐ろしい。

不老不死の方法まで見つかるんじゃないかと期待されているこの時代だからこそ、人々は「我々は知っている」という錯覚に囚われている。なにしろわからないことの多くは、ググれば解決してしまう。本当のところはそれは浅くて取ってつけたような知識に違いないのだろうが、それでも知った気になってしまう。

SNSの普及もそれに拍車をかける。昔の人たちは情報のアクセスに限界があったが、現代人は世界の陰謀までネットで得られると思っている。しかし、当たり前の話だが、情報はそもそも発見されたもの以外は流れない。そして発見されていない事がまだまだ無数にある事を忘れてはならない。もちろん、流れている情報への理解が正しいとも限らない。僕たちは今も沢山の天動説に囲まれていると僕は考えている。

話が飛躍してきたが、「知っているつもり」になっている人々にとって「未知」のものが与える恐怖が計り知れないということに尽きる。そしてその恐れは恐れの連鎖を生んで世界中に拡散される。メディアに溢れる情報のなんと玉石混交なことだろうか。ニュースを見ても恐ろしいばっかりなのだろうから、ザッピングもほどほどに分野はなんであれ、体系的な本でも読んで勉強した方がよっぽど対策になるだろうと僕は思っている。未来は恐れるものではなく冷静に準備するものであるべきと考える。

変化した時代からは戻れない?

冒頭のように、一度スマホを知ってしまったら、ほとんどの人はガラケーに戻れない。数十年経って再評価されることがあるとしたら、それはガラケーの記憶のない世代が登場してからだろう。しかしカセットテープのように音質が良いなどのメリットがガラケーに存在する必要があるが(スマホと違って寒さで電源が落ちにくいのはある)。

仮にガラケーの時代が再びやってきたとしても、それは戻るというより、前に進んだ結果だろう。そしてそれはメリットがあるからだ。人々がメリットを見出して納得すれば、世界は縄文時代に向かってだって前進するだろうと思う。

敗戦後、再び日本が好戦的な政策を進めていけるとしたら、これもまた世代交代により、戦争の記憶が薄れて新たにチャプターに入るからと考えられる。

何が言いたいかというと、2020年のコロナ禍に対して、元の生活に戻ることを期待するのは、あまりにもリスキーじゃないかと僕は思う。ビフォーコロナとアフターコロナでは別物だ。戦前戦後と同様に。

だから、全ての人が生き方を改める必要があるだろうと思う。自然災害の一つとして、疫病の流行を考慮して生きることになろうか。その前提で仕事のあり方も見つめ直すべきだろう。ビフォーコロナではなくアフターコロナの新時代にあった方向にシフトする。仕事も資産も何もかも分散は必須だろうし、野菜を作るなど含め、生活を少しづつ個人の手に取り戻す。政府が国民全員を平等に助ける事ができない事なんて、最初からわかっていたはず。

そして詰まるところのコロナ対策は、健康第一であることと、サバイバル能力を高める事。サバイバルとは生活の中で依存している事柄を減らす事。無くても大丈夫な暮らしをすること。

あと、うがい手洗い。コロナに打ち勝ってもインフルがいるのだから、うがい手洗いはこの先もずっと習慣にしたい。

感想というか、言いたいこと言ってるだけのような…

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