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象徴性と意味性

1.おにぎり

おにぎりの外観はどこだろうか。アホらしい質問であるが、意外にも考えれば考える程、おにぎりに明確な境界面なんて存在しないことに気が付く。中に具材が入っているならまだしも、塩にぎりなんてモノは外観=中身であり、どこまでも食べてもずっと同じ外観をしていて、同じ姿のまま最後の一口に変わっていく。中身だけの存在である。

そこで、おにぎりに海苔をつけてみる。🍙。そう、これこそ私達が考える本当のおにぎりの外観ではないだろうか。おにぎりをおにぎり足らしめている要素は、紛れもなく海苔なのである。無くても良いけど、存在の挙手を可能にしてくれる存在。それがおにぎりという記号を与え、単なる白米の塊が歴とした「おにぎり」であることを伝達してくれる象徴性なのである。三角形にしなくても良いのにみんな三角にしたがる。本来の意味性よりもおにぎりに対する象徴性の方が勝っているが故に、全体の造形が歪められているのである。

2.カーナビ

ドライブ。それは本来的には自分の方向感覚を信じて進むべきものである。あの方角に富士山があるとか、東京タワーがあるとか、そういった直感に従って道路を進めば目的地に到着する。そういう世界線があっても良かったはずだ。しかし実際にはカーナビにお世話になる。

カーナビはGoogleと比べても優秀である。なぜなら、どこにサイン標識があり、何車線あり、三つ先の交差点を右折するにはどこを走れば良いかなどを事細かに説明してくれるからだ。それはつまり、地上にあるサイン標識とコミュニケーションする以上の価値を提示してくれるのである。現代において地上のサイン標識は車内の機械設備に代替されたも同然で、地上で行われるべきドライバーとサイン標識とのコミュニケーションの存在意義はない。

カーナビに存在するのは、その意味性のみだ。確かに他の最新デバイスに見慣れている現代人からするとLEXUS純正のカーナビでさえ醜く感じられるのも事実であるが、そこには象徴性よりも性能、すなわち意味性の方がよっぽど重んじられているのであり、それが担保されさえすれば、カーナビ本来の目的は達成されている。造形は平凡でも良い、ただ性能を上げてくれと。

3.象徴性と意味性

おにぎりとカーナビ。象徴性と意味性。ここで強調したいのは、それらが二項対立では無いということ。それが本稿の大前提にある。その二つの要素は目的は同じであるものの手法が異なる。それが「あひると装飾された小屋」のような図像学的な議論を走らせている。以下に示す引用は、まさしくその立役者によるものだから、適材適所と言えようか。

スタイルとサインを持った建築は反空間的である。それは空間の建築という以前に、コミュニケーションの建築であると言えよう。コミュニケーションが、建築及びランドスケープの一要素でしかない空間を凌駕しているのだ。

ロバート・ヴェンチューリ、『ラスベガス』より

彼が「スタイルとサイン」と言っているものは、「象徴性と意味性」である。分かりやすく説明すると、あひるは本来の機能がそのシンボリックな外形によって歪められることによって象徴性を見出し、一方で装飾された小屋とは建物は平凡なのに文字や記号で建物を象徴的に見せるということ、すなわちそれは建物の意味性を強調しているのである。

この象徴性と意味性が、近代以降の建築批判の対象となってきたのは間違いない。それがポストモダンに影響を及ぼして記号論的な方向に走らせてしまったのも事実であるが、そういう様式の話をここではしない。それよりも現代に応用できる実効性のある議論として利活用できる要素に絞って議論をしていく。

4.装飾の必要性

建築の意匠設計者は装飾という単語を嫌う。それにも関わらず平凡を避け、いかに装飾という単語を使わないで自らの建築の合理性を説明して自画自賛するかを考えている。社会を生きる人々が建築家に求めているのは合理性ではない。装飾である。クリエイターではなくアーティストを求めている。Less is More. な建築は官能的で美しいが、社会は統合された建築理論なんかよりもぱっと見の華やかさを求めている。よく隈研吾氏がやり玉にあげられて表層的だという簡単な批判をくらうが、そこでも装飾を毛嫌いする意匠設計者の偏見が垣間見える。

現代に生きる私達は、外観の象徴性が建築に求められる機能の一つになりつつあることに着目しなければならず、とりわけロードサイドの商業建築(銀座や青山通り)は資本主義に迎合するためのアイデンティティ誇示を怠っていないのである。つまり、かつて機能⇔装飾というように対立構造を形成していた二つの要素が、近代以降の世界では併存するのだ。前項に記した「あひると装飾された小屋」は、いずれも資本主義に求められた外観の象徴性、すなわち装飾という機能への対応の差異が露呈しているのみであり、その目的意識は同じなのである。

装飾の必要性を理解した上で、ヴェンチューリはあくまでも装飾された小屋の方を支持する姿勢を見せ、小屋と装飾(サイン)を分離してパラレルにそれぞれの性能を上げていく手法を近代的だとしたのである。つまり複雑化するより多くの機能を充足させるのにLess is More. 的なミニマリズムを働かせて単一論理で処理するあひるよりは、複雑な要素を複雑なままに充足させることができる装飾された小屋の方に可能性を感じていたらしい。醜いあひるの子を増産するよりも看板を増産し、おにぎりを増産するよりもカーナビを増産した方が良いと。

5.近代の統合的図像

ルネサンス期には古代ローマ時代のオーダーを復興させたヴォキャブラリーを持ち、様々な建築が生まれていったが、それと同様に近代建築家たちは工業モデルの定形比例関係をヴォキャブラリーとして発展させた事実がある。ミースはアルバート・カーンの設計した工場をみてI型スチールサッシを想起させ、コルビュジェは可塑的な形態をみた穀物用エレベーターをみてその後の作品に影響を与え、グロピウスは自らが設計したファグス工場をみてバウハウス校舎を想起させた。

そういった近代以降の工業モデルが近代建築家にとっては新鮮でかつ影響されやすい存在だったのは、それが科学と技術の統合的図像だったからだ。実用的な目的を果たすためだけに作られた機能がやがて美学的に統一されていく姿は象徴性と意味性が統合された建築の原初であった。つまり機械や道具の進化と同様に、建築も本来の実用性が図像学に統合されていく美学が作られた訳である。

同時にこの時点で装飾という単語を嫌う建築家の典型も作られたと言って良さそうだ。コルビュジェは著書『今日の装飾芸術』の中で、生活のための実用品は昔の奴隷を拭い去ることができたと述べている。ここでいう奴隷とは紛れもなく装飾であり、日常生活に美意識をもたらした事が近代の功績であるとしている。補足すると、彼自身が芸術家なので「芸術こそが人生に必要だ」という前提が彼の中にはある。しかし、そういった無償の情熱(=装飾)と効用的な必要性とを峻別することが大切であると述べ、建築も機関車や蒸気船のように、近代システムを迎合すべきであるという主張は変わらない。

社会は統合的図像を提示するクリエイターなんて求めていないのに、建築家はいつも物事を統合した美しい論理を好む。少なくとも構造と外観の統合的図像はゴシック教会において完成を見たのであり、建築家はいまだにそれを目指している。ただ、特段それは批判し尽せるものではなく、建築家の実験的で先進的な取り組みが人々の気が付いていない未来を切り開く可能性もある訳だ。例えばスペイン風邪の大流行において病院建築が増えた事を逆手にとって近代建築家がモダニズム建築の片鱗を築き上げた話は有名である。

6.東京の超高層

現代における統合的図像は超高層建築である。正確に言えば、ここでの統合的図像とは装飾と床面積との統合である。ルーバーなりガラスサッシなり、表層的にしか現れない象徴性と適度な床面積を充足させるという意味性とが統合されているのである。

資本主義が求める意味性とそこに付与される象徴性が一つの形態として立ち現れ、都市の風景を変えていく。レム・コールハースが「敷地の上方拡大運動」と呼んだ資本主義の成せる業を、その床面積を増やすという意味性の成果物として存在する超高層建築それ自体、が象徴性の代表格として立ち現れているように感じられる。それはバベルの塔と同じ感受性のままに。

特に東京の超高層建築においては、あひるでも装飾された小屋でも無い合理的な姿で象徴性を獲得しているように感じられる。なぜなら、空調や照明器具、エレベーターまで含んだ超高層のトータルデザインにおいては、天井高が低くて容積が小さくかつ柱の無い平面が大きく、コアまでの動線距離が短い空間が善とされるが、例えばモスクワやドバイに見られるスパイラル形状のビルはほとんどないし、ニューヨークのように区画が小さくないのでゆったりとした実用的な超高層建築が多いからである。

かつてアーキグラムが目指したような英雄的象徴主義、つまりメガストラクチャーを多用した空間第一主義的な発想は東京に存在せず、ただ都市の中で自己防衛的に幕の内弁当のような全部入りの街を含有しているのみである。そこには象徴性と意味性がブラックペッパーのように散りばめられ、社会と建築の乖離を防いでいる。

7.煩雑な駅

空を見上げれば統合的図像が見える一方で、地上や地下を見下ろすとどうだろうか。駅空間にはサイン標識や看板が氾濫し、人の大洪水を起こしている。どこに線路があってどこに乗り換えたい鉄道が走っているのかはサイン標識に従うまでわからない。そんな非直感的で煩雑な駅空間はどうして生まれてしまうのだろうか。

ここで駅の形態進化を考えるのは面白い。かつて駅と言えば象徴性そのものだった。中世ヨーロッパでは教会が街の中心だったものが、駅の開通によって二つ目の中心が形成され、そこは人々の集う広場となった。現在でもヨーロッパの多くの国で改札が存在しない事実はこういうパブリックな性質によるものがあるのではないだろうか。

ヨーロッパの駅としてまず思い浮かぶのはパリのリヨン駅であろう。築100年以上の大きなアーチ型の天井は訪れる者の高揚感を掻き立て、鉄道で旅立つ人間の感情に呼応する圧倒的に美しい空間である。しかし、この巨大な一体空間を生み出す理由が象徴性だけであるはずは無い。

かつての鉄道は蒸気機関車である。そう、その煙を歩行空間と分離させるために巨大な容積を必要としたのである。それが技術革新によって電気機関車、完全な電動車へと移り変わっていく中で、駅の一般的なサイズ感も徐々に縮小していったのである。あくまでそこに付随する形で象徴性という特徴が見出されたのである。

日本の駅空間を想像すると、まずはその空間よりも先にサイン標識が思い浮かぶ。文字通りカーナビ的な要素として、駅空間は平凡でありつつも徹底的に空間の意味情報を押し付けて来て、結果的にそれが駅の象徴とすら変わりつつある。先日、JRの駅から時計がなくなっていくニュースを悲報のように書くメディアがあったが、日本で駅と言えば、空間ではなくホーム上のサイン標識なのである。その理由にはおそらく、日本人にとっての公共空間がパブリックではなくポピュラスを目的していることがあげられる。つまり平等よりも公平性、共通性よりも固有性を目的としたマーケティング的な発想で公共性を作り上げるから、暗黙知に任せることなくサイン標識を丁寧に一つ一つ置いていくのである。

8.駅にできること

駅にとってのカーナビ、つまりサイン標識が害悪だと言いたい訳ではない。そうではなく、駅にとってのおにぎり要素、つまり空間を使った象徴性によって駅の直感的なイメージアビリティを向上させることができると思うのである。このイメージアビリティは駅の全体像を把握し、サイン標識を見ながらも直感的に空間を理解することを目的としている。

ヴェンチューリも言うように、近代の複雑で多様なプログラムの中において平面計画や空間構成を単純にするだけで象徴性が意味性を凌駕できるとは考えていない。むしろサイン標識の活用のみで人々の正しい動線を規定できているのだから、新宿駅や池袋駅といった巨大ターミナルのトータルデザインとしてはクールな解決策だと言える。しかし、様々な利権者がそれぞれの価値観を押し付けるあまり、私達の駅体験はサイン標識に踊らされ過ぎているのである。

象徴性と意味性をトータルに利活用した、ヨーロッパ程まで簡素にしなくとも直感的で高揚感のある空間を作ることができるのではないかと思う。それは東京の超高層建築のように社会に迎合しつつも非凡にやり遂げるような統合的図像であり、おにぎりとカーナビの中和であり、人間と建築の対話である。そういう空間を駅にもたらすことが出来れば、より現代的な意味でのリヨン駅の高揚感を引き出すことができるだろう。


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