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マクロとミクロ

金継ぎ。それは壊れた茶碗や湯呑、お皿に美しさを吹き込む美学。完成形としてのモノに生じた傷を表すことで、元よりも美しい姿へと蘇生し、理想が破壊されたモノを、理想以上のモノに昇華する行為である。つまり、ミクロな修整がマクロな美しさを作り出すのである。ひとつひとつの断片が、元の状態を超えた美しさを呈する。

世界には、このようなミクロとマクロの相乗効果、あるいは補完関係が多く存在している。そしてそれは、ある特定の限られた領域のみならず、分野横断的に普遍的な原理としてこの世界を形成しているのではないだろうか。

建築

建築好きは様々な場所に訪れる。僕は、そのすべての探訪体験も、マクロとミクロに還元できると考えている。

建物に受ける壮大なインスピレーションと、訪れた後に感じる矮小なエクスペリエンス。それらが織りなすトータルな残像こそが建築を体験したことの最大の証明である。つまり、ビジュアルから受ける感動と、それを補完する所作デザインの連続と積層である。

サグラダ・ファミリアの礼拝堂を内側から眺める崇高な風景は、全て意味付けられた細かな彫刻の1つ一つ抜きにしては語れないし、東京スカイツリーから受ける感動体験は、エレベーターに閉じこまれる50秒の高揚感抜きにしては語れない。ましてや東京の駅空間の清潔さは、トイレの個室のキレイさ抜きに存在し得ない。

トイレの平面をヒダ状に配置するよりも、温暖便座を設置するとか。トイレの鍵を布で包んで金属部分を触れさせないとか。遮音性を高めるだとか。個室ごとにダウンライトを設置するとか。意外にそういう小さな所作とそこで感じられる感情に対して誠意を持って設計することの方が、マクロな物語的完結性を考えるよりも素晴らしい空間体験を生み出せるのだ。

とある建築友達は、建築の良し悪しはトイレで決まるなんて言っていたが、あながちそれも間違いではないと思う。そういうミクロな経験がトータルなマクロ意識を決定付けていく点も大いにあるからだ。人間は感情の生き物だから、瞬間瞬間の刹那的幸福感(ミクロ)が、建物の表象的外観(マクロ)を補完し、それらがトータルな残像を作り出すことで私達は「あの建物は居心地良かった」とか「悪かった」とか「なんか臭かった」とか色々勝手な解釈をもたらすのである。

自然

グレート・バリア・リーフは人間以外の生物が作った地球最大の構造物だという。数多ある観光情報サイトでは空から見たエメラルドグリーンの写真が掲載されているが、私達はサンゴポリフの脳(明確な脳はないので神経系と呼ぶべきか)の中で何が起きているのかを知る由もない。まるで始めから美しい景観がそこにあるかのように、そうなるべくして形成されたかのように、私達はマクロな外観しか捉えることができない。だが実際には、とてつもない年月をかけて1つ一つのサンゴポリフが生存競争する中で形成された、ミクロの集積体なのである。

アメリカカケスという鳥がいる。その鳥は、餌を手に入れてからすぐには食べずに貯蔵する。餌が周りの動物に見つからないように隠しておいて、あとで食べるのである。動物界においてこれ自体が相当に高度な仕組みであるが、さらに驚きなのが、それは1度自分が盗みをしてから起こす習性であるということなのである。当事者として盗む立場を経験して初めて気が付くのが隠すという行動の大切さなのである。

この高度な認識は例えばシロアリの作る高層ビルのような蟻塚(蟻の大きさを考えると600m級の構築物)や、ビーバーが作る小枝の巣よりも偉大かもしれないが、私達は記録を残す生物の方を上に見がちだ。私たちはマクロが作る美しい風景に心を奪われている中で、ミクロな習性の美しさを見落としがちなのである。

車前草(オオバコ)という植物は誰もが目にしているだろう。それは平地から高地まであらゆるところに「雑草」という名のもとにおいて繁殖していて、東京でも見ることができる。東京で彼らを見ることができる場所は床タイルの目地。それは彼らにとっての生態学的ニッチを、生存競争の少ない、しかし多くの人間に踏まれ、雨風にさらされ、時には車にも踏みつぶされる過酷な場所にしか見出せなかったからである。何度も何度も踏まれ続け、仲間を失い続け、それでも太陽を求めて這い上がろうとする。そういうミクロな世界が東京に存在するのである。いつしか気付いたらタイルが緑に染まっているかもしれない。その時は、「雑草」を刈り取ろうとせず、「オオバコ」というミクロな世界線をほめたたえるべきだろう。

AI

藤井聡太九段と羽生善治九段。彼らはともに将棋界の巨匠として君臨しているが、その成長過程は大きく異なる。つまり、羽生さんは多くの人間と経験を重ね、藤井九段はコンピューター、大げさに言うとAIと経験を重ねることによってその腕を上げてきたのである。

僕自身は将棋をそこまで詳しくないので恐縮ではあるが、藤井九段の打つ手はAIと鍛錬を重ねて得られた統計的な直観から導かれる。非常に戦略的で論理的な羽生九段の打つ手とは違って、誰も予想できない、しかし後々に考えると凄まじい一手を打つのである。

それはミクロな経験値ではなく、マクロな経験値としての統計的一手であり、AIとの鍛錬は人間にマクロの視点を付与しているのである。

人間とAIの共存、あるいは対立といった議論は長らく叫ばれてきた訳だが、現代において既に人間はAIと共存し、新たな知的ビオトープを形成している。悲観論を叫ぶのは歴史的には自然な流れであるが、新たなイノベーションに対して否定的な感情を正当化する意思は、必ず崩壊する。ガラケー時代に登場したiPhoneにバッテリー持ちの悪さを持って否定した意思は、現代人の誰も同意できないであろう。

僕のスマホは毎日の睡眠時間を分析し、睡眠時間の2時間前にブルーライトフィルターが起動し、15分前くらいになると白黒画面になる。さらにスマートウォッチで得られた睡眠モニタリング情報から点数化し、週末には平均睡眠時間や歩数、運動時間、スマホ画面を付けていた時間などを合算して通知してくれる。また、体重計に乗るだけで勝手にデータが集計され、僕の健康状態を統計的に管理してくれている。ミクロな毎日の生活習慣は、マクロなデータとして蓄積され可視化される。

AIというと何か「2001年宇宙の旅」に出てくるHALのような不気味な物体を思い浮かべがちだが、その単語は思ったよりも広範で、身の回りにまかり通っている。40年間一度も事故を起こしたことがないタクシー運転手は、GoogleやTeslaが運転する5年ほどの経験に勝ち目がない。今はそういう時代なのである。ミクロを超越したマクロな感覚が私達の生活を改変している。

結び

米を炊く時に急いでいると水分量を間違えて不味くなる。人間なんてそんなもんである。自分のミクロな心理状態は直接的にマクロな成果を形成し、その連続ドラマが一日である。朝起きてから夜寝るまで、そういうミクロ意識に対する心がけによって総体としてのマクロな人生が決まっていくのである。

物事を創造するとき、説明するとき、僕は常にマクロとミクロの両端を考える。万物には常にスケールフリーな相関関係、意味が存在するからであり、それらの両端からしか見えてこない本質的な課題が必ず見つかるからである。ミクロとマクロを分離することが、今まで抽象的にしか語れていなかった問題をスケールで分類し、明確な論理を引き出すための鍵になるのである。

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