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拡張自己と建築

ロンシャン礼拝堂を訪れた。僕は初めて、建築と同化した。それはどこか僕の身体が拡張して建築を内化したような不思議な空間感覚。今まで感じたことが無いくらいに僕は建築に「なった」のだ。

この文章ではその時に感じた建築との同化感覚を拡張自己という視点から考えていく。そして人間の生身のテリトリーとしての皮膚、社会的インターフェイスとしての衣服、空間的な包容力としての住宅に議論を発展させ、哲学的視座も通して人間のテリトリーについて考察を深める。

拡張自己について

「自己」は常に揺らいでいる。その最も分かりやすい例が、哲学者モーリス・メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で論じた盲人の杖の話。

盲人にとっての杖はもはや物質としての対象を離れ、盲人に付着した身体となっている。つまり盲人の触覚的対象は手の皮膚からではなく杖の先端から始まるのであり、杖は感受性を持ち得た外部器官として盲人の一部になる。(要約)

この例はあくまで特別な物かもしれないが、僕たちの身の回りには単なる物質以上の存在、すなわち物の知覚的・心理的・社会的役割が多くある。物は身体の一部であるかのようにふるまい、僕たちを補助してくれているのだ。言い換えると、物々は僕たちの身体に接続して一種のサイボーグを形成し、非完結型の活動システムを作り上げる事によって僕たちの拡張自己として存在できるのである。

しかしそれは物質には限らないはずだ。消費者文化の研究者ラッセル・ベルクによると拡張自己の生成には3つの方法があるとされている。それは①物を個人の一部にすること、②物を創造すること、③物を知ることである。

①例えば富士山を登頂した時に山頂から見る風景、初めて自動車に乗って走り抜けた街道、使い方を体得したパソコン、僕たちはそこに拡張自己を認識する。

②例えば自分で作り上げた芸術作品、アイデア、文章には自分の手元を離れた後でも拡張自己を認識する。金銭を使って物を購入する行為も同様だ。

③例えば好きな人について、映画について、専門分野について好奇心を持って知ることも拡張自己の生成である。

これら3つの生成プロセスを踏んで、僕たちは何がしかの物質に身体意識を拡張させることによって可変的なサイボーグとしてこの社会に生きているのだと言えよう。

衣服

第二の皮膚としての衣服。その社会的意味は古代から認識されてきた。動物の毛皮を羽織ったネアンデルタール人に始まり、祭殿での白装束、葬式での黒装束、平安時代に高貴な女性のみに使われた十二単など衣服は重要な社会的インターフェイスとしての役割を持ち得て発展してきた。現代では社会人がスーツ、学生が制服を着る事がある種のマナーとなり、社会的インターフェイスとしての役割は継続されている。さらに衣服は人間の個性表現となり、人間の多様性を衣服を通して知ることもできる。

しかしながら、衣服の身体的な役割についての本格的な認識が始まったのは20世紀に入ってからのことだ。戦後の経済発展に合わせて物質主義が勃興し、衣服と似たような日常的な物の存在意義を再確認する動きが始まったからである。カナダの哲学者マーシャル・マクルーハンの『メディア論』の中で衣服を皮膚の拡張体(第二の皮膚)とする言論が話題を呼び、衣服にまつわる身体的な役割、いわば衣服の熱制御機構を提示した。ここでは生身の皮膚が持っていた機構が第二の皮膚に取って変わられたことを指し、衣服こそが人間を外部環境から保護する身体の一部となったことを述べたのであった。

拡張自己は常に自分の周りに散在し、自分の流儀がまとわりつく。デバイス系をappleに統一したい人、ヨウジヤマモトでファッションを統一したい人。世界に溢れる様々な流儀が拡張自己としてその人の個性を表現するのである。

人の思想信条、ライフスタイル、文化背景、経済力などによって独特の珍しい服を意図的に選ぶことで自らのセンスや自分のユニークさを示そうとしたり、高価な衣服をまとうことで財力を誇示しようとする人は多く見受けられるが、それは個人の表層的な装飾ではなく拡張自己そのものであるのだ。だからそれらを否定することはその人自身を傷つけることになるし、その逆もまた然りである。

イスラームの女性が肌の露出を避けるのはそういった思想の中に生きる拡張自己そのものであり、衣服を宗教によって制限されているのではない。

住宅

住宅は大きな衣服と捉えることができる。なぜなら、その身体的役割は個人から集団へと拡大したまでであるからである。衣服が個人の体温調整を、住宅は集団の快適温度を保つ身体的役割を持っている。その意味では、住宅を第三の皮膚と定義できるだろう。だが、集団の快適温度を保つ際に現れる現象学的な住宅論を語るとき、その単純化は的を外れている。

もし25℃を快適温度としたときに、人が入ってくるとその空間の温度は人間の体温によって微妙に変化するため、自動調節機能が人間を系に含みこんだ新たな快適温度を目指すのである。つまり、「集団」を纏う衣服ともなればそれは単なる皮膚の拡張体としてではなく、生身の個体差を計上した上での平衡状態を目指す必要があり、それは常に人間とのフィードバックを以てして初めて成立する。集団が住宅システムを身体化したサイボーグになる必要があり、時間軸を加えた時に生じる衣服との差異が発生するのである。

つまり身体的役割は衣服と住宅で同じであるものの、時間軸を入れた現象学的な議論においては衣服が「物をサイボーグ化」させて人間に付随させるのとは異なり、「人間自身がサイボーグ化」して住宅システムを作り出す状況が生まれるのである。衣服は体内的に活用し、住宅は体外的に活用せざるを得ないのだ。

建築家の青木淳氏は住宅とは「くうき」をコントロールすることであると述べる。ここで言う「くうき」とは個人と個人、部屋と部屋との関係性のことである。建築家は住宅の配置をL字にして心理的な分断を作ったり、スキップフロアにして全体の繋がり感を作ったりすることによってマッスな物質ではなく、その隙間を作っているというのだ。

住宅の設計がくうきの設計だとした時、住宅を作っているのは壁や床ではなくコミュニティそのものであると考えられ得るだろう。住宅とは特定の集団を柔らかく包み込む衣服であり、主体はそのコミュニティであると。

住宅の価値は内装や機能的充実、ましてや外観のキレイさでは決して決まらない。モダンリビングやnLDKといった共通観念的な快適さ、空間居住科学を追求した先にある形式的な豊かさはほとんど虚構である。人間と空間とのやり取りの中にしかリアリティを持てないような本当の無駄な空間、そこに入り込む人間と自然の本性の掛け合いこそが住宅の本質的な価値であり、そこに始めて人間の息吹をあらわにした衣服的な佇まいが生まれるのである。生命活動(内部と外部の平衡状態)の外観としての衣服。

…かといって形態主義や機能主義が極端に否定されるのはどうも腑に落ちない。衣服的な佇まいにはすなわち、個性表現も含まれるからである。

皮膚

ところで、シロアリが築く蟻塚の構造を知っているだろうか。それはただ無造作に土を盛って穴を掘り進んだ結果ではない。そこには一見無秩序だが1つ1つの穴が合理的で、かつ全体の系として捉えたときの皮膚的な空間の仕組みが混ざり合っているのだ。つまりそれは下部で放射状に広がる穴の集合体としての住処ではないのである。

生物学者のJ・スコット・ターナーはそれまで考えられていた蟻塚の仕組みを覆したことで有名になった。彼は蟻塚内にある多くの隙間やトンネルによって肺胞を構成し、蟻塚全体が肺として機能することを発見したのである。空気の吸入と吐出のサイクルを繰り返すことによって常に新鮮な空気が蟻塚の奥深くまで浸透し、地面近くの蟻塚が持つ多孔質な壁を利用して熱交換が行われ、新鮮な空気との密度差を利用してサイフォン効果を生み出すことによって自動的な空気循環が起きるのである。

1つの蟻塚には100万を越えるシロアリが住みつき、毎時約1.5リットルの酸素を消費する。さらに蟻塚内部に住み着いた菌類の酸素消費が加わり、合計すると9.5リットルに達する。これはヤギ一頭程度の大きさの哺乳類が必要とする代謝率に等しいのだという。つまりシロアリにとって蟻塚は彼らが十分に呼吸するために必要とされる外部化された臓器であり、もはや人間にとっての住宅や都市という概念さえ優に越えた存在であるのだ。人間が自らをサイボーグ化して1つの住宅システムを成立させているのに対し、シロアリにとっての蟻塚は彼らの生命そのものなのである。

シロアリ以外にもミミズが地中に作ったトンネルはミミズの腎臓、オケラの巣穴は拡声器、ミズグモの巣は肺であるとされている。もはや彼らにとっての住処は無機的な住む場所という役割を大きく超越した生命の延長であり、生きていく「はたらき」がそのまま顕在化された皮膚なのである。

(http://karapaia.com/archives/52108082.html)

我思う故に我あり

デカルトが鉄道の中でポツリと言い放ったこの言葉はあまりに有名だ。何を疑おうとも、そこに意識を感じる自己という存在だけは否定できないのだ。拡張自己の適応範囲がどれだけ広がり、どれだけ縮まろうともあなたの存在は1つに保証され、そこに留まる。

我生きる故に皮膚あり。我着る故に衣服あり。我住む故に家あり。拡張自己の存在保証もデカルトと同じように可能なはずだ。なぜならそれらは必然から生まれた自己のテリトリーであり、因果を踏むことによって自己と相似的に捉えられるからである。そしてそれはネット空間に義体化した現代人の意識も同じである。SNSアカウントがどこにあろうとそこに吹き込まれたあなたの意識そのものが、その存在証明となっている。

シンクロニシティ

シンクロニシティと聞くと、どこぞのアイドルグループのヒット曲を思いつく人もいそうだが、これはスイスの心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した非因果的連動の原理を指す概念である。これは共時的に関連の無い独立した事が引き起こる超常現象を指すことが多いが、そこには宗教や量子力学、生物学、心理学、脳科学、文化人類学の全てが目指している統一理論が隠れていると僕は考える。

ユングは集合的無意識によって意識は互いに交流し、全てのシンクロニシティは「偶然にではなく、相互的に(co-including)」引き起こると考えた。バタフライエフェクト(カオス理論)とはまた異なるが、必ず隠れた因果があるのだ。

スピリチュアルな物を一切受け付けない狭い視野しか持たない人も世間には多いが、ある種オカルト的な現象が何の理由も無しに世界中で古代から引き起こされてきた事実には目を背けてはならないはずだ。目に見える物が全てではないことは、かのアインシュタインでさえも認めている。アインシュタイン自身はスピリチュアルという単語を使ったが、そこにはエネルギーの上下動が作り出す壮観な不可視領域があると思う。例えば2007年にベストセラーとなった『引き寄せの法則』、例えば死後の世界の存在を伝えてくれる『生きがいの創造』を読むと、エネルギーや波動といった統一理論の存在を考えざるを得なくなるだろう。物理学的に全ての物はエネルギーに還元可能だし、超ひも理論とはまさに量子力学のエネルギー的な解釈法である(1980年代にM理論に発展)。僕たちはE=mc2を何のために学んできたのか。

拡張自己はシンクロニシティを引き起こすことによって生まれることもある。時間帯によって自分の書く字の美しさが大きく左右したとき、目覚まし時計が鳴る数秒前に目覚めたとき、あなたはシンクロニシティを通して拡張自己を形成しているのである。

模型vsCG

建築学生が一度は経験する戦い。濃密な建築模型を作るか、それともCGで突き通すのか。…大抵の場合は模型を作り始める事になるのだが、それでもやはりPCソフトウェアの進化は凄まじい。結果的な表現手段として考えるとCGの方が優勢な気もするが、こればかりはその表現内容に寄ることが多い。

だが多くの建築家が言うように、やはり模型には模型の良さがある。その理由は、CGで作り出すヴィジュアルでは空間に入り込む「妄想」が出来ない事にある。もちろんウォークスルー機能を使えば空間シークエンスは分かるのだが、そこには拡張自己が生まれ得ない。模型を見つめるときに生み出される、模型サイズにまで縮小された拡張自己をCGでは作り出せないのだ。模型製作は建築を考える人にとっての手段であると同時に、縮尺の概念を超越した拡張自己を生み出すための行為なのである。

また、イギリスの文化人類学者ティム・インゴルドのベストセラー『メイキング』にあるように、手には知性が宿る。手で作ることは知ることと同義であり、暗黙知によって成立する独立した第二の脳である。建築家フランク・O・ゲーリーの模型制作過程を見れば、手がどれだけ情報や知識、分析にも勝る人間の芸術の最先端的存在であるかが分かるだろう。手を使って試行錯誤することは脳が持つ情報よりも先回りした直感的な創造性を誘発し、本人が気づきもしなかった画期的な新しさに出会うきっかけと成り得る。拡張自己としての建築模型。そこにこそ民藝品が持つような人間的な美しさが育まれていく。

社寺仏閣的存在

ここまで議論を進めると、もはや冒頭に述べたロンシャン礼拝堂との同化感覚など些細な事にしか思えない。拡張自己は僕たちの身の回りに散在していて、僕たちはそのゆらぎの中をさまようように生きていることが分かったからである。

この議論でより重要なのは空間に対する拡張自己を通してどのように建築を人々に還元するかである。古来日本の都市は社寺仏閣を中心にして栄えてきた。人々は社寺仏閣で学び、遊び、集い、話し、売り買いをしてコミュニティを作り上げていた。そこには単なる建築の存在を越えた人々の熱量が集まっていた。言い換えると、それだけ多くの人が拡張自己を形成していたのである。

今日の大都市においてエネルギーの源泉は何だろうか。地下鉄なのか、オフィスビルなのか、はたまた広場なのか。例えばイタリア・シエーナにあるカンポ広場が都市のリビングとなり得て東京の地下鉄にはそれが出来ない。拡張自己を許容する建築/空間こそが都市の熱量となるのではないか。それは未来を予兆する空間であると同時に、かつて日本が持ち備えていた社寺仏閣的存在でもある。

僕の世界旅行

人間の脳には大脳辺縁系という共感を覚える部分があるのだが、結局のところ人間を動かすのは感動であり、その根幹に仮想的な拡張自己がある。建築が目指すべきはその仮想的な拡張自己の誘発であり、空間と人とのフィードバックが相補的に作り上げる意識の幻想である。

もはや人間の拡張自己は皮膚-衣服-住宅といった物理的なテリトリーによって語られる物を超えた哲学的・心理学的・宗教的な問いであり、それは人間の美しさを顕在化させるための原動力であるのだ。人間のテリトリー意識は様々な姿を呈して、あるいは不可視的に常に揺れ動き、振動している。今そこにいるあなたはその一断片でしかなく、それと同様にこの文章も僕の一断片である。僕の拡張自己は文字データとなってSNSを通じて社会に拡散され、知らぬ間に僕は世界旅行することになる。実際より何倍にも広く薄く引き伸ばされて、僕の存在証明をし続けながら。

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