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“裏からのぞけば表が見える”展覧会

先日、サントリー美術館にて開催された「inspiration or information? 左脳と右脳で楽しむ日本の美」展に行ってきた。

キュレーターは佐藤オオキ氏率いるデザイングループ「nendo」。彼らの独創的かつ合理的な発想は日本国内外からあまりにも高い評価を受けていることは既に知られているが、この展覧会では彼らの思考にまんまと踊らされる、それこそ彼らの思う壺に完璧にハマッた体験をさせられた。(撮影はOK)

概要をザックリ説明すると、この展覧会は入口から出口までを2周することで初めて完結する。というのも、この展覧会では日本を代表する厳選された作品がわずか27個しか展示されていないのだが、その作品を感性で観るルート理性で観るルートの2つの見方がある訳だ。

今回僕は、初めinspirationだけで感じるルートを行き、その後にinformationのルートを行ったため、1周目で作品に対して感じたこと思ったことを2周目に答え合わせするかのような展覧会を体験した。

inspirationルートではちょうど大人が腰を曲げて覗き込めるくらいの高さに小さな窓があり、視線を下げると暗闇の中に工芸品のみが浮き上がる構成だ。

照明や見せ方、触る展示や、逆にあえて見せないなど、27個の工芸品それぞれの独自性をさらに引き出すような巧妙な展示デザインがなされていた。

そして2周目のinformationルートでは普通の展覧会ではあり得ないくらいの丁寧かつ適切なキャプションが27個続く。所々で、キャプションの反対側の壁に窓があり、inspirationルートで見ていた工芸品の裏側を眺めることができる。つまり、実は1つの工芸品に対して2つの窓があった訳だ。

しかもキャプションの隅っこで、nendoおなじみの“アイツ”が分かりやすいビジュアルで教えてくれるから理解に優しい。

↑コイツだ(笑)。

キャプションだけにライトが当てられてこちらも工芸品同様に文字が浮き上がるような構成。

「工芸品の答え合わせ」はこんな具合だ↓

これが…

これ。

これが…

これ。

これが…

これ。

これが…

これといった具合。

それぞれの特性を最大化する展示が、作品の羅列よりも圧倒的に人々のinspirationを引き付け、同時にそれを裏付けしようとする人間の理性に従ってinformationがより必要とされる。?→!への自己解決である。

また、サントリー美術館の吹き抜け下では傘を持って歩き回る作品もある。4つのダウンライトは傘を持って歩くと風景の描写に移り変わるのだ。傘をクルリと回せばそこに映り込む色も変わっていく。というのは、実は傘に貼られた透明な板は偏光ガラスで、ある一定の光のみを遮ることで見えなかった世界が映し出されるのである。見えない世界を求めて傘さして歩き回る。そんな新しい体験。

…と、こうして写真付きで説明しても、この展覧会の中身は到底伝わらないだろう。なぜなら、これ自体があなたの論理に働きかける手法だからだ。自分で行って、体験して、理解することで初めてこの展覧会はあなたのものになる。

nendoは単なるデザイン集団ではない。過去のデザイン様式を踏襲するわけでも、デザインのその先にある斬新な物を考えるのでもない。むしろ彼らはデザインのその手前にある物事を考えている。今当たり前になっていることを疑い、それとは異なる当たり前な姿を見出すのだ。だから決して感性への働きかけだけで彼らの魅力は終わらずに、論理的思考への整合性も取れた新しい当たり前を作り出すのがnendoなのだ。

粘土のように柔らかい思考で物事を考えるということにちなんで“nendo”という名前が付けられた訳だが、そこに求められる柔軟さは今ある先へ進むためではなく手前に引き下がるために使われる。ガラスを作る工程を見た佐藤オオキ氏の発想がまさしくその手前方向への柔軟さを表している。彼はガラスを膨らます工程を見たときに、職人さんにこう言ったらしい。「ガラスを膨らますのではなく、吸ってみてください」と。

電通とnendoとが共同でcacdoというマネージメントデザイン会社を設立したことからも、彼らが単なるプロダクトデザイナーではないことが分かるだろう。彼らこそがデザイナーのあるべき理想形だ。

日本人にとって美術展覧会は、どこか心底触りがたい、小さな頃に親に無理矢理に連れて行かれる退屈な思い出しか無いような物である(少なくとも自分は(笑))。というのも、美術品それ自体よりも、その展示の仕方がつまらなすぎるのだ。多くの展覧会では作品がショーケースの向こう側に置かれていて、それを壁沿いに見て回る。まるで美術作品が過去だけに独立した産物で、現代に生きる我々は1次元向こう側の世界を他者的に眺めることしかできないかのようだ。

傍観者は、そこに並べられた美術作品に神々しさを覚えられなければ知性が足りないとされ、強制的なプライドの押し付けに虐げられまいと必死に抵抗する。まるで、豊洲の水門に描かれたネズミがバンクシーの作品かどうか分からないがとりあえず都庁にでも飾っておこうとするかのように。

展示品を物理的に傍観者の近くに置いているが、心理的にはより傍観者の遠くに置いてしまっているという皮肉。

オーストリア第2の都市、グラーツにある歴史地区は決してその街並みをショーケース化しようとはしない。常に伝統が生き続けている。日本の歴史地区ではあまりにも考えられないようなガラス張りの建物やグニャグニャの建物も混在する。他にもデンマークやスウェーデン、スペインでもそういった事例を実際に見てきたが、ヨーロッパでは街並みの中のコントラストに美しさを見出す感性によるリノベーションが現代という伝統を街に植え続けているらしい。

というのも、芦原義信氏の『街並みの美学』にも書いてあったことだが、西洋では元々外側から建物を考えていく習慣がある。パブリックな道から始まるプライベートへのグラデーションである。それに対して東洋では1番プライベートな空間から始まるパブリックへのグラデーションがあるから、東洋では意識として街並みへの配慮が少ない。周りに合わせようとして出る杭は打たれるようにして街並みが出来上がっていくが、西洋では街への意識が元々強いため、全体の中でひとつひとつの建物を捉えて考えられるのだ。だからこそ、歴史地区に現代という時代を街の記憶として吹き込もうとする意識が現れる。

…と話はとんでもない方向に飛んだように見えるが、実はこれが美術作品と傍観者との距離感に似ている。美術作品が「街並み」で傍観者が「市民」と考えた時に、西洋的な美術展覧会とはそこに伝統が生き続ける姿があるはずである。市民が街並みに現代という時間を注ぎ込んで街が進化していくように、美術作品も現代に生きて傍観者に愛されるべきなのだ。

それはショーケース化ではなく、グラーツ歴史地区的な、傍観者が主体性を持った理解を可能にする展覧会であるべきなのだ。プロトタイプを触ったり、浮き上がる輪郭を見て考えたり、幾何学的な意味を理解したりすること。そうやって理解することで美術作品を自分の物にできる。そういうひとつ上の理解をした時、あなたは単なる傍観者を越える。そういう事が可能な展覧会こそが伝統を生かし続ける展覧会なのだ。

岡本太郎氏は子供たちが美術作品に乗って遊んでいるのを見てとても喜んだと言う。美術作品は見るだけのものではなく、使いこなすべきものなのだ。

今回の展覧会はその主体性を導く、新しい展示プラットフォームとなっている。それこそnendoの著書名の通り、「裏からのぞけば表が見える」展覧会な訳だ。

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