日本あちこち【#1】 年明けは須磨から
一時期、神戸に住んでゐたことがある。
理由は転勤。
初日の出勤は1月の仕事初めとあって、年末の引越しとなった。
年末に引っ越しを終へて、そのまま神戸で年を越すことにした。
地図を眺めてゐたら須磨まで電車で5分ほどで行けることがわかった。
須磨。
源平合戦の舞台になった地といふこと以外にとくに知らないが、いい名前の街だなと思った。
年越しは須磨寺だった。
駅を降りてから道すがら除夜の鐘が聞こえてきた。
鐘の鳴るはうを目指して歩く。
山門をくぐるころに午前0時を迎へた。
とてもおほきなお寺で、新しい土地での暮しがうまくいくやうにお願ひをした。
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深夜に初詣に出かけてしまったため、元旦からさっそく寝正月。
お昼ごろに起きると外は快晴だった。
昼の須磨も見てみたいと思ひ立ち、もう一度、須磨に遊ぶことにした。
須磨浦公園から明石海峡をのぞむ。
〽︎ ともし火の明石大門に入らむ日やこぎ別れなむ家のあたり見ず
この歌は万葉集巻三 柿本人麻呂の羇旅の歌。
明石海峡を風光明媚たらしめるのはこの歌によるところが大きいと感じるのは僕だけだらうか。
ちなみにこの歌は原文に羇旅の歌として八首を一括収載されたもの。
その冒頭の249番は、下句が古来難訓歌で、いまだに定訓がない。
その歌とは、
〽︎ 三津の崎波をかしこみ隠江の舟公宣奴島爾
これが読めたら日本文学史に名前を残せるだらうか。
なんせ源順をはじめとする梨壺の五人、仙覚、賀茂真淵といった過去の天才たちでも訓をつけられなかったのだから。
須磨浦公園の東の宅地街に安徳宮といふ安徳天皇の内裏伝説地があることを知り、立ち寄ってみることにした。
源平争乱により都を追はれた平氏が西国へむかふ折り、この地に安徳天皇内裏を置いたと伝はる。
安徳天皇はその後、壇ノ浦の戦ひで建礼門院とともに入水した。
歴代最年少の8歳で崩御した。
まさに悲劇の幼帝だ。
安徳天皇ゆかりの地は下関の赤間神宮が有名だが、ここ須磨にも伝承地があったことは知らなかった。
日も暮れてきたしおうちへ帰らう。
神戸でむかへた新年。
元旦から万葉の歌にはじまり悲劇の幼帝に想ひをはせるなんて、ずいぶんと風流な一年のはじまり。
2017.01
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