◆遠吠えコラム・映画批評「ONE PIECE FILM RED」・「シャンクス、全部お前のせいだよ」
久しぶりの遠吠え業。アウトプットが遅いのが今後の課題だな。もう少し更新頻度を上げられるよう努力してまいる所存です。
話題の映画「ONE PIECE FILM RED」観てきたぞ。以下に感想というか批評というか遠吠えをしていく。いってみよう。
〈あらすじ〉
時は大海賊時代。世界中の人々を歌声で魅了する人気歌手ウタが新世界の島エレジアでライブを開き、初めて公の場に姿を現す。素性を隠してきた彼女であったが、ライブ会場に居合わせていた海賊麦わらのルフィーによって、自身が大海賊「四皇」の一人、赤髪のシャンクスの娘であることを暴露される。エレジアには四皇の「弱み」を握ろうと不穏な動きを見せる新世界の海賊たちとテレジアに封印された恐るべき古代兵器の秘密を探る世界政府と海軍の姿が。ライブに酔いしれ、醒めることのない夢の世界へと誘われる観客たち。夢のような時間の裏で、世界をも滅ぼすウタの恐るべき計画が着々と動き出していた。
【全体的にケチ臭い】
アニメーションの作りが全体的にケチっぽく感じた。まずは序盤のウタが音楽の島エレジアの巨大なステージで「新時代」を歌うシーン。歌謡部分の声優を務めるのは、ユーチューブで再生回数1億回を超えた大ヒット曲「うっせぇわ」でヒットした人気歌手Ado。圧倒的な歌唱力で、劇場の音響で聴くとその迫力で体が震えてしまうほどだ。
だが、彼女の圧倒的歌唱力に比して、ウタのモーションがものすごくちゃっちい。人がコメ粒ほどに見えてしまうほどの巨大なステージの中心でポツンとスポットライトを浴びて歌いながら踊るのだが、ステージの中心からほとんど動かないし、踊りの振り付けも腰から上だけが忙しく動くだけでダイナミックさに欠ける。会場に対してパフォーマンスが小さい。客席の近くまで歌い手が駆け寄って観客をあおったりするサービスがあるのが音楽ライブの醍醐味だと思うのだが、なんともサービス精神に欠ける。そうではない曲ももちろんあったが、本作の主題歌とも位置付けられる曲のパフォーマンスがなんてサービス精神に欠けるんだと、劇場で首をかしげてしまった。
【静と動のバランスの悪さよ】
「ONE PIECE」の魅力の一つに、技が決まった時の絵のカッコよさがあると思う。例えば、第51話「ロロノア・ゾロ海に散る」で、海賊狩りロロノア・ゾロと王下七武海の大剣豪・鷹の眼ジュラキュール・ミホークが対峙するシーン。大技「三千世界」を繰り出すもミホークに打ち破られたゾロが体から血を吹き出す絵は圧巻。
映画「椿三十郎」(監督・黒澤明、東宝、1962年)で椿三十郎と室戸半兵衛が対峙する名場面をほうふつとさせる。
大技が決まった瞬間のストップモーションを漫画では、「ドン」とか「ドドン」と言った擬音語を付して力のこもった作画でこれでもかというくらい贅沢に見せている。アニメではゾロとミホークの刃が交わる瞬間をかなり長尺で見せ、ゾロの刀が折れて血が噴き出る瞬間などはスローモーションの演出を加えている。こうしたシーンはほかにもいくつかある。新世界パンクハザード編でトラファルガーローが海軍G5中将ヴェルゴを刀で真っ二つに切り裂くシーンなどもそうだ。「ONE PIECE」は勝慎太郎演じる座頭市をモデルにしたキャラクターが登場したり、歌舞伎の口上のような説明文が頻出したりすることからわかるように、原作者尾田栄一郎さんは歌舞伎や時代劇が好きであることは想像に難くない。先述したような、歌舞伎の「見栄」や座頭市的演出は「ONE PIECE」の特徴の一つと言っていいと思う。だが「RED」の戦闘シーンはなんともせわしなく展開し、この魅力がほとんど見られなかった。麦わらの一味のコック・黒足のサンジが敵キャラに攻撃を加えるシーンでは、けり技を加えた瞬間爆風のようなエフェクトが加わって技が決まった瞬間がよく見えない。ゾロの斬撃も、敵キャラのカラダに太刀筋が白く浮かび上がって爆発はするものの、パンクハザード編でドン・キホーテ海賊団モネを真っ二つに切り裂いた大技「大震撼」の時に描かれたような長尺の戦闘シーンは用意されていない。ナミがゼウスを操って攻撃を繰り出すシーンでも、ゼウスが画角を猛スピードで通り過ぎるので、見間違いかと思ってしまうほどだった。
極めつけは赤髪海賊団のシーン。本作は「RED」のタイトルが示すように、赤髪海賊団が登場する。戦闘シーンがどこまで描かれるのか個人的にはすごく楽しみにしていた。期待していた通り、赤髪海賊団の戦闘は描かれるのだが、敵キャラに攻撃を加えた瞬間、衝撃波みたいなエフェクトがキャラクターを覆ってしまい、どのような能力を駆使してどのような技を繰り出したのかよく見えない。赤髪海賊団の面々は漫画本編でもまだあまり具体的な戦闘シーンや能力が描かれていないため、今後の原作本編の楽しみを奪わないための配慮なのだと思うが。家で恋愛映画を見ていた時に、キスシーンでまさに唇が重なり合おうとするその瞬間、風呂上がりの親父が着替えのパンツを探しながらテレビの前を上裸で通り過ぎて肝心なシーンが見えなかった時くらいのもどかしさを覚えた。
【キャラ出しすぎ問題】
先述した戦闘シーンのせわしなさもそうだが、物語のテンポが全体的に速いように感じた本作。そのテンポの速さも作品としてのけち臭さを大いにアシストしてしまっていたように思う。何故そうも全体的にせわしなくしなければいけないのかというと、ひとえにキャラを出しすぎということに尽きるのだと思う。
ウタを巡って四皇ビッグマム海賊団をはじめとする新世界の海賊が島でドンパチをおっぱじめ、そこに海軍大将黄猿、藤虎、CP0などが物語に絡んでくる。頂上戦争に勝るとも劣らぬそうそうたる顔ぶれだ。それぞれのキャラクターに見せ場を用意しようとすれば、戦闘シーンで技が決まった瞬間に「ドドン」と見栄を決めるような長尺のもたもたしたシーンを設けていては2時間前後に納まりっこない。1キャラ当たりの時間配分を短くしなければならなくなり、その分キャラの魅力が伝わる度合いも薄まる。すると各シーンの重厚感が減り、作品全体としてやせ細っていく。バイキングで豪華な料理が並んでいても、全部を山盛りで味わうことなんてできないから、それぞれを小盛にしてちょっとずつ味わわなければならないジレンマと似ている。本作で一番贅沢に見せ場を用意してもらえたのはウタであることは言うまでもないが、その次くらいに魅力的な見せ場があったのは意外にもCP0のブルーノだと思った。ドアドアの実の能力を駆使した空間移動能力は物語上かなり重宝されていたように思う。一方、あの海軍大将藤虎なんて能力使って一回も隕石落とさなかったし、トラファルガーローに至っては登場回数の割にはオペオペの実のごく初歩的な能力である瞬間移動を使ったくらいだったように記憶している。前作劇場版「ONE PIECE STAMPEDE」で、王下七武海クロコダイルのスナスナの実の能力との合わせ技で海賊王ゴールドロジャー海賊団の元船員ダグラスバレットの合体能力を妨害したあのときとは全く大違いだ。ガンマナイフやカウンターショックのような大技はのきなみ鳴りを潜めていた。
登場キャラが多いほど、各キャラをどの程度登場させ、物語上でどのように見せ場を用意するかは、作品全体の質にも影響するし、その裁量は作り手の腕次第だが、本作はあまりうまくいっていないように思えた。
【シャンクスのネグレクト】
本作最大の問題は、やはりウタのキャラクター造形だろう。赤髪海賊団の音楽家だったウタだが、船長で父親代わりのシャンクスが音楽の島エレジアに立ち寄った際、音楽家たちと交流する娘の姿を見て、彼女が音楽家を志していることに気づく。出航前夜、ウタの悪魔の実の能力によって島に封印されていた古代兵器トット・ムジカが解放され、島民たちを襲う。シャンクスおよび赤髪海賊団メンバーはトット・ムジカと一体化して暴走したウタを止めたが、時すでに遅く、エレジアの王ゴードンを除く島民は皆命を落としてしまう。シャンクスはウタが目覚めたときに罪悪感を抱かないよう、自身が島を滅ぼした罪をかぶり、ウタを音楽家として育ててもらうようゴードンに託して島を去っていくが、去り際にウタは目覚めてしまい、島を焼き払って自分を置き去りにしたシャンクスの背中を見送ることになる。以来ウタは、シャンクスが娘である自分を捨てたという誤解を胸に音楽家として成長していくわけだが、これって極言すれば、育児放棄では。
娘の夢を尊重した末の苦渋の選択だったと言えば聞こえはいいのかもしれないけど、アクシデントとはいえまだ幼い自分の娘のせいで島一つ滅ぼしといて、そりゃないぜ。トット・ムジカを開放してしまったのは娘の能力なのだから、再び惨禍を招かないよう少なくともウタをエレジアから遠ざける責任は親としてあると思うし、再び娘が暴走しないようそばにいてあげて、娘の持つ力を正しく導いてあげるのが親の役割ってもんじゃないのかい。娘がやがて自分の夢に心から目覚めて船を出るその日まで、そばにいてあげることがどうしてできなかったのか。音楽を学ぶ上であらゆる資源が揃うエレジアは、音楽家を志すウタにとってこの上ない環境なのかもしれない。そんな島に置き去りにしたのは娘の夢に気づいたシャンクスなりの思いやりだったのかもしれない。でも、世界は広いし、ウタがその後音楽家に順調になっていくとは限らないんだぜ。素直に音楽家になってくれたからいいものを、音楽家ではない道だってあったはずなのに、かごの中の鳥のごとくエレジアに押しとどめることはむしろウタに対して音楽家以外の可能性を奪うことでもあり、夢の押し付けではないか。音楽家になるにしても、シャンクスたちと旅をしていろんな人に会っていろいろなものを見て、触れる体験の方がよっぽどその後のウタの人生にとっても、音楽にとってもプラスだったのではないかと思うのだが。だってウタは外のことはあまり知らずに育って、案の定人格がゆがんで大人になってしまったわけだし。何よりウタはシャンクスたちとの旅が好きだったんだから、娘が納得のいくまで、それこそ品性がひねて音楽をあきらめて、どこの馬の骨かわからないバンドマンと駆け落ちして船を降りていくその日まで、どんと構えて面倒を見てやるってのが親なんじゃないのかよい。
後々ウタは自分がエレジアを滅ぼしたことやシャンクスが自分を島へ置き去りにした理由、島を滅亡に追いやった罪をシャンクスが自分に代わってかぶった事実を知るシーンが用意されるのだけど、これらの事実を知ったとしてもウタの育児放棄には依然はてなマークがつくと思うよ。娘が手におえないからって他人に面倒を押し付けて自分は自由な新世界クルーズを謳歌しようなんてひどい話だぜ。
娘を海で拾ったとき、自分がかつてロジャーとレイリーに拾ってもらったことを思い出して「これは運命だ」とか嬉しそうに言ってたじゃないかよ。あれはいったい何だったんだよ。手に負えない不良娘がその後何をするかって?再びトット・ムジカ開放するんだよ。エレジアどころか今度は世界を滅ぼすとこだったんだぜ。シャンクス、マジで何してくれてんだよ。え?娘を悪く言うなって、やめてー、覇王色の覇気で逆切れするのやめてー。暴力反対。てゆうか、ウタが暴走した時、覇王色の覇気で解決できたのでは?だってさ、最終章に突入した原作の方で海軍大将緑牛のモリモリの実の能力を無力化できていたじゃないか。いや、もう何も言うまい。くそ親父。早く娘連れて新世界なりラフテルなりに行ってくれ。
(了)
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