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◆遠吠えコラム・「シン・仮面ライダー」(監督・庵野秀明、2023年)・「誰がために仮面ライダーになる」(ネタバレあり)

 どうもお久しぶりです。しばらく投稿が途絶えていて誠にすみません。今回のコラムは、今いろんな意味で話題の「シン・仮面ライダー」について書きました。言いたいことが多すぎますが、今回は、仮面ライダーを含む戦後の特撮に横たわるテーマを軸に、「シン」について論じました。かなり辛口の遠吠えです。変身!


【あらすじ】

 本郷猛はある日、謎の組織「ショッカー」によって改造手術を施され、驚異的な身体能力を得る。手術によって人格まで失いかけたていたところを、ショッカーの恐るべき計画に気づいた緑川博士(演・塚本信也)と娘の緑川ルリ子(演・浜辺美波)によって救い出される。緑川博士は、本郷に施された人体強化手術「オーグメンテーション」の開発者。ショッカーは緑川の技術で生み出された強化人間「オーグ」の力によって、世界征服を企んでいる。緑川は、ショッカーの計画を阻止するため、「オーグ」の中でも最高傑作の力を兼ね備えた本郷に協力を持ち掛ける。本郷は、自らに宿った恐るべき力に戸惑い、戦うことをためらう。そんな中、組織を裏切って逃亡を図った3人の前に、ショッカーが追手として送り込んだ蜘蛛オーグが現れ、緑川博士を殺害し、ルリ子を誘拐してしまう。ルリ子を救い出すため、本郷は漆黒の仮面を被った「仮面ライダー」として、ショッカーと戦うことを決意する。

【新?真?…「シン」とは一体何なのか?】


 本作で監督・脚本を務めた庵野秀明は映画公式パンフレットで、「シン・仮面ライダー」の制作動機を「オリジナル(の「仮面ライダー」)の魅力を社会に拡げ、オリジナルの面白さを世間に再認識して貰うことでした」とのコメントを寄せている。

 この言葉通り、本作は石ノ森章太郎原作の漫画「仮面ライダー」(1971年、講談社)や漫画を元に作られたテレビ版の「仮面ライダー」(1971年、東映)のエッセンスをかなり忠実に盛り込んだ作品だと思った。序盤に蜘蛛オーグたちと山奥のダムで戦闘を繰り広げるシーンなどは、テレビシリーズの第1話「怪奇くも男」における蜘蛛男との戦闘と、カット割りに至るまでかなり酷似している。ショッカーの戦闘員を殴り倒して絶命させる際に大量の返り血を浴びる残酷描写も、原作の漫画で使用されている表現だ。他にも本郷猛がショッカーとの戦闘で死んだ後、彼の遺志が仮面ライダー2号である一文字隼人に乗り移るという展開も、漫画のストーリーを概ね踏襲している。つまり、原作漫画及びテレビシリーズを最大限リスペクトした作品だろう。

 ただ、そうなると「シン」とは結局、何なのかという疑問が浮かぶ。

 「シン」を冠した最初の作品である「シン・ゴジラ」(2016年)では、ゴジラは日本近海に埋め立てられた核廃棄物によって生み出された怪獣という設定で、東日本大震災や福島第一原発事故以降の原発問題を想起させた。この設定は、ビキニ水爆実験によって生まれたとされるオリジナルの「ゴジラ」とは異なる現代的な造形だった。ゴジラの必殺技である放射熱線も紫色の炎を帯びた禍々しい光線で、尻尾からも放出されるという新たな攻撃パターンも盛り込まれていた。

 ところが、2作目の「シン・ウルトラマン」あたりから雲行きが怪しくなる。例えば、主人公のハヤタ隊員ウルトラマンへと変身するシーンでは、CG全盛の時代にあえて昔ながらの3段ズームエフェクトを使用していた。必殺技のスペシューム光線も、テレビの映像が乱れた時のような白い細かい針のような線が入ったテレビシリーズ初期のような造形で、シンゴジラの放射熱線のように現代的なアレンジと言うよりかはアナログなつくりにこだわっていたように感じた。極めつけは、ウルトラマンが直立で飛行し、着陸する場面や、直立したまま縦に回転して相手を攻撃するという、ソフビ人形で遊んだ時に関節が曲がらない人形を子供が回転させて戦わせている時のあの動きがアクションとしてまじめに演出されていて、ちょっと笑ってしまった。長澤まさみがメフィラス星人によって巨大化させられてしまう展開などは、「ウルトラマン」の第33話「禁じられた言葉」で巨大化されるフジ・アキコ隊員そのものだ。「シン」とは言いながらも、概観すれば、あの頃の大好きな俺たちの特撮ヒーローを令和の世に再現してみた―というノスタルジックな作品だったと思う。

 
 上述したように、3作目の「シン・仮面ライダー」は原作漫画やテレビシリーズの初代「仮面ライダー」のエッセンスを多分に踏まえており、ノスタルジックは更に加速している。主人公の本郷猛は池松壮亮が演じていたが、あのぼさぼさのボリュームのある髪型などは藤岡弘、そのものだった。あのぼさぼさ頭にライダージャケットは、当時は何か斬新でかっこよかったのかもしれないけど、現代のイケメン俳優がやると、ちょっときついなと感じてしまった。そんなイケイケの外見をしているのに、緑川ルリ子曰く、本郷は「コミュ障」なんだってさ。一方、原作漫画ではミニスカート姿だったルリ子は、映画では黒のピシっとした長ズボンに長ブーツ、黒のニットにカーキ色の革のロングコートを羽織っていた。そこは「シン」なんかい!


 ただ、怪獣のデザインは結構好きだった。西野七瀬が演じていた蜂オーグや大森南朋がアテレコをしていた蜘蛛オーグなどは、つくりがどこか仮面ライダーと相似形で、ショッカーが作り出したシステムから生み出されたもの同士であることを想起させた。特に仮面の造形がとても美しかった。あの仮面、売っていたらほしいし、怪獣たちのソフビ人形も販売してほしい。こういうことだよ「シン」って!当時と今では価値観が全然違う。当然「カッコいい」の考え方も。伝統的な特撮ヒーローの哲学を大事にしつつ、現代の価値観に合わせてアップデートして新たなものを生み出す、それが「シン」だと思ってたけど、どうもそうではないらしい。



【国家権力と一体化する特撮ヒーロー】

 オリジナルの「仮面ライダー」の魅力を社会に拡げる試みの元、オリジナルを最大限リスペクトしながらでつくられた「シン・仮面ライダー」だが、「オリジナル」が(恐らく)大事にしてきたであろう哲学のようなものが欠落しているように思えた。具体的には、国家権力といった巨大な権力との距離感だ。本作で本郷とルリ子は、日本政府と思しき組織の協力を得ながらショッカーに立ち向かっていく。これは、本作が原典とした石ノ森章太郎原作の漫画にはない、映画オリジナルの設定だ。世界征服を企む組織と立ち向かうためとはいえ、仮面ライダーという暴力装置が、国家権力と一体化してしまうことに何のためらいもなかったのだろうか。

 庵野が「シン」の原典にしたであろう石ノ森章太郎原作の漫画「仮面ライダー」における国家権力はどのように描かれているか。第6話「仮面の世界」で、ショッカーは、電子頭脳(コンピューター)によって国民を管理しようと目論むが、この恐るべき計画が実は、日本政府が計画していた国民を番号で管理するシステムが元になっていることが明かされる。つまり、原作漫画における日本政府は、巨大な権力と資金力、情報集能力を背景に国民の管理・監視を希求していた恐ろしい存在として描かれている。ショッカーは、日本政府の計画を、自らが望むディストピア実現に利用しようとしたに過ぎないわけだ。


石ノ森章太郎原作「仮面ライダー」第6話「仮面の世界」より

 日本政府が国民を管理・監視するなんて陰謀論めいた設定だと思うかもしれない。でも、それに近いことを行っている独裁国家はこの世界に確かに実在する。日本でも、マイナンバー制度という、国民を番号で管理するシステムを彷彿とさせる制度の導入を政府が真面目に進めている。こうした状況を見れば、石ノ森の描いた日本政府があながち突拍子もない設定ではないことは明らかだ。石ノ森は、漫画の中で、日本政府や大企業と言った巨大な権力が内包する危うさを鋭くとらえている。そうした巨大な権力による支配から人々を守るために孤独に戦う存在として、仮面ライダーが登場する。権力への批判的な眼差しは、原作の根幹を成す「哲学」だ。日本政府の命を受けて戦う「シン」のライダー像は、庵野がリスペクトしている原作の「哲学」とはかけ離れたものだといわざるを得ない。

 そもそも、日本政府ほどの巨大な資金力があれば、仮面ライダーのような兵器を開発することなど容易いのではないか。実際、「シン」の作中で日本政府は仮面ライダーの力を頼らずして、サソリオーグと蜂オーグという2体の怪人を亡き者にしている。日本政府と結託して戦うことが物語の推進力となっているかと言えば、全くそうでもない。

 前作「シン・ウルトラマン」(2022年)では、主人公は秘密警察として名高い公安の人間だった。その前の「シン・ゴジラ」(2016年)でも、主人公は日本政府の人間。彼のヒット作である「新世紀エヴァンゲリオン」も、主人公が属する特務機関ネルフは国家機関。作中で「情報統制」といった物騒な言葉がカジュアルに登場する。庵野はしばしば、巨大生命体などといった脅威から一般市民を守る存在として、国家権力の側の人間たちを描いてきたように思う。その描き方からはしばしば、警察や軍隊といった国家権力に対する疑いのなさ、無邪気な憧憬のようなものがにじみ出ている。その姿勢はエヴァではなんとなくはまったのかもしれないが、「シン」でアレンジされてきた戦後生まれの特撮とは食い合わせが悪いのではないかと感じる。

 庵野が手掛けてきた「シン」シリーズが原典としてきた「ゴジラ」(1954年)も、「ウルトラマン」(1966年)も作品の端々に巨大な力への畏怖の念のようなものが散りばめられている。「ゴジラ」に登場する芹澤博士は、ゴジラを駆逐するために兵器「オキシジェンデストロイヤー」を開発するが、兵器が何者かに悪用され、新たな戦争の火種となることを恐れて使用をためらう。「ウルトラセブン」第26話「超兵器R1号」では、地球に現れたギエロン星獣を倒すために地球防衛軍が超兵器R1の使用を決めるが、主人公の諸星ダンは、兵器の使用がより強力な兵器を生み出す軍拡競争へと発展しかねないと警鐘を鳴らす。原子爆弾を生み出し、実際に使用して大量殺戮を繰り広げた人類の愚かな歴史、強力な兵器や科学力がもたらす更なる争いといったテーマを、戦争を経験した作家たちが生み出した特撮ヒーローは背負っている。

 ただ庵野自身は、ゴジラやウルトラマン、仮面ライダーと言った特撮ヒーローへの飽くなき愛を公言しながら、「力への畏怖」「権力への批判的眼差し」といった作品の根幹を成すテーマにはどうやら興味がないようだ。

 でも聞くところによれば庵野は、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」(1967年、東宝)が大好きらしい。庵野、お前は岡本喜八から一体何を学んだのか。

【誰がために、何のために戦うのか?】


 仮面ライダーに登場する「ショッカー」は、人間を改造して欲望などの感情を奪って徹底的に管理し、秩序ある発展と平和をもたらすディストピアを希求している。主人公本郷は、ショッカーが希求する社会像に対し、「人間はみな平等だっ これからの世界には……人類愛こそ必要な時だというのに それを家畜のように支配するなんて―ぼくはごめんだ!!」と、「否」を突きつける。そして、人類の征服を企むショッカーに立ち向かう。しかし、「シン」の方では、ショッカーが目指す社会像に対し、仮面ライダー側が特にこれと言ったアンチテーゼを打ち出せてないように思えた。それ故に、わかりやすいストーリーラインにもかかわらず、本郷たちが何のために、誰のために戦っているのかがよくわからなかった。
 
 「シン」では、本郷たち以外に一般市民がほとんど登場しないことも、彼らの戦う理由のわからなさを補強してしまったように思う。確かに、「蜂オーグ」(演・西野七瀬)に洗脳された人々を開放するために戦うシーンはあるが、それを除いて、喜怒哀楽がある人々が全くと言っていいほど登場しない。原作漫画では、公害問題をテーマにしたストーリーが登場する。第3話「よみがえるコブラ男」。利潤追求のためにただひたすら工場を稼働し、海や空気を汚染し続ける会社に対し、人々がデモを起こす。会社を裏で操って資金集めをしていたショッカーは、デモを起こした人々を攻撃する。環境汚染に苦しむ人々をさらに苦しめようとするショッカーの所業に、本郷は義憤に駆られて立ち上がる。ここでも、ショッカーが目指す社会像と、本郷ら仮面ライダーたちが目指す社会像が真っ向から衝突する。一方「シン」では、ショッカーに苦しめられる一般市民が登場しないので、なんのために戦っているのかがわからない。力による支配とはいえ、人間社会に平和と安寧をもたらそうとするショッカーの方がいくらか真面目に見えてしまった。主人公以外の登場人物がぼんやりとした書割りのような感じがしてしまうのは、庵野作品が「エヴァ」以来抱える問題なので、今更とやかく言っても仕方がないのかもしれない。というか、そもそも、前章で述べた、仮面ライダー含む戦後の特撮が背負ってきたテーマについて庵野自身に関心がない様子を見ると、ライダーが戦う理由についても突き詰めて考えていなかったのではないか。結局さ、ライダーの変身ポーズとかライダーキックとかそういうのがただただかっこよくて、それを、現代の実写映画や日本アニメの粋を結集して再現したかった―というのが、本当のところなんじゃないかな。あくまで推測だけど、あながち間違っていないのではないかと確信にも似た気持ちを抱いている。そんな奴に、俺の大好きな仮面ライダーは渡さん!と俺の中の藤岡弘、が叫んでる。
(了)

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