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仮想的な母性愛 川上弘美「蛇を踏む」

 「ヒワ子ちゃん、蛇の世界はあたたかいわよ」
 うんうんと頷くと、女はつづける。
 「ヒワ子ちゃんも蛇の世界に入らない?」
              (川上弘美『蛇を踏む』文春文庫、p37) 


 川上弘美「蛇を踏む」。文春文庫版『蛇を踏む』には芥川賞受賞の表題作のほかに「消える」「惜夜記」が収録されている。
 「蛇を踏む」は、教師を辞めて珠数屋のカナカナ堂で働くサナダヒワ子が、公園で蛇を踏む場面からはじまる。踏まれた蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間のかたちになって歩き去る。家に帰ると女のかたちをした蛇がいて、料理をつくって待っている。「わたし、ヒワ子ちゃんのお母さんよ」という女は、しきりに「蛇の世界へいらっしゃい」と呼びかける。
 この小説は、類型や分類を拒むらしい。無理にくくろうとしても、まさに蛇のようにこぼれ落ちるものがある。鶴女房などの異類婚姻譚のひとつに数えられるとおもいきや、小説内でわざわざ鳥と結婚した曾祖父の話を持ち出して、「へんな寓話だと思った。教訓のない寓話だと思ったのである」「寓話ではなく実際の話だったとしても、今の私とは違う話だと思った」とあらかじめ安易な読みを封じている。そもそも通常の異類婚姻譚は(曾祖父の話がそうであるように)はじめは人間の姿をしているものが、後になって狐や鶴だと明らかになる展開だが、この小説ではそもそものはじめから蛇から人間に変わる様をみせている。蛇は人間の外部にいる存在ではなく、ましてや教訓をもたらすものでもなく、むしろ他の人間よりも近しい存在としてあらわれる。
 小説内には三体の蛇が登場する。ヒワ子の母親。珠数屋を営むコスガさん・ニシ子さん夫婦の元にいる、ニシ子さんの叔母。取引先の寺の住職の妻。いずれも女性としてあらわれ、身体的・口唇的なコミュニケーションを好む(ヒワ子の母は夕食をつくり、住職の妻は蕎麦をつくって食べさせる。そうしてどちらもよく肌をすりあわせてくる)。 
 この小説のなかには父的存在がいない。ヒワ子の電話口にあらわれるのは母であり、コスガさん夫婦には子供がおらず、住職は「がんらい子供は好きではないからの」と言う。蛇が持つのは、他者を支配するような父権的な愛ではなく、むしろ他者と同化しようとするような母性愛である。蛇に対してヒワ子は嫌悪感をあらわしながらも、ふと思い至る。

私が教師をしていたときの生徒だとか同僚だとか、それを言うなら母にも父にも弟に対しても、薄かったり厚かったりするが壁というものはあって、壁があるから話ができるともいえるのであった。
 蛇と私の間には壁がなかった。(同上p29)

 ここで言う壁、他者と関係する上で不可避的に生じる齟齬は、言葉を介して生まれるものだ。蛇はヒワ子に毎夜食事をつくり、そのときだけ盛んに会話をする。まさに母が子に乳を与えるようにして、二人はつながっている。会話はちぐはぐだが、むしろちぐはぐだからこそ繋がっているのだ。ここでは言葉よりも濃密な身体的コミュニケーションがおこなわれている。一方カナカナ堂で振る舞われる天丼を食べたヒワ子は、「いつものように腹にもたれ」ると漏らす。人間どうしでは、口唇的なコミュニケーションはうまくいかない。
 また偽の母である蛇と本物の母が(幻想のなかで)言い争う場面では、蛇は「子蛇やら巻き蛇やらを投げつけては母を縮こまらせ」るのに対して、本物の母は「慣用句やらおまじないやらを投げつけては蛇をひるませる」。母が投げつける慣用句やおまじないは、同じ文脈を有していると互いに認め合ってはじめて有効になる、分化を前提としたコミュニケーションである。蛇の身体的な関わり方は、これらのもの(本音と建前でいえば建前)とまったく相容れない。
 「蛇の世界」とは言葉を獲得する以前の、身体的に未分化な母ー子の関係に還る世界、あたかも羊水のなかにいるように「あたたかい」世界なのかもしれない。
 この小説に登場する人物はみな「標準的な」家族をもっていない。あるいはもっていたとしても関係をうまく結べない。そうした孤独な人間は他者と接しても「壁」を感じ、仮想的な母性愛に逃避しようとするが、一度母親と離れてしまった以上はふたたび胎内に戻ることはできない。ヒワ子も当然そのことをわかっていて、終盤「蛇の世界なんてないのよ」と啖呵を切るが、「ほんとかしら」「そんなかんたんなことかしら」と言い返されると、すぐに「またわからなくな」る。幻想的な描写で話は終わるが、「水」に包まれながらこれ以上ないほど蛇と身体を絡ませ合うヒワ子は、果たして蛇の世界へ行かずに済むのだろうか。
 嘘や建前のない蛇の世界に嫌悪感を持ちながらも惹かれるヒワ子の「蛇を踏む」世界は、いま読んでも古びていない、身につまされるものがある。

 「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことはある?」
 誘うような目をして訊いた。
 何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、はて、今までにあっただろうか。(同上p37)

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