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哲学の存在意義は「言語化」にあり

私とは性格も考え方も、そして専門領域も異なる友人A。あるとき彼から哲学について、「明確な答えが出せないところが何とも解せぬ」といった趣旨の所感を表明されました。大学時代、政治哲学ゼミの端くれ学生であった自分としては、ここで何か腑に落ちてもらえるような、気の利いた哲学の意義を言わなければ…と思い立つ。が、その場で即座に答えること叶わず、「まぁたしかにねぇ~」と、お得意の同調言葉で場を流すという結果に。

考えてみれば哲学の存在意義とは、実際のところ何なのでしょうか。歴史自体は古代に端を発しているだけあり、その答えは今までに多くの先人が語ってきてはいることでしょう。しかしながら現金な我々現代人は哲学に対して、小難しく屁理屈っぽく、(友人Aが言ったように)答えが定まらず、(多くの学生が感じるように)就活に全く役に立たない、そんなイメージを抱いているというのが実情ではないでしょうか。

私自身、これらの世間的な「哲学のイメージ」は何ひとつ間違ってはいないと感じています。ゼミではいくつか哲学書を読む機会がありましたが、高校時代にサンデルの書籍を買うほどであった私でさえ、言葉遊びに翻弄されているような気分で文献を購読していました。まさしく小難しくて屁理屈っぽい言い回し、結局答えは何なのか、例外だってあるんじゃないのか。そしてこれだけ難しい本をいくら読んだところで、それらの実績を私が就職活動の面接場面で取り上げることは一切なかったのでした。

このように身の回りのほとんどを科学的に定義されつくした現代において、哲学の存在意義を説くことはできるのでしょうか。

ボストン大学の神経学者アンドレイ・ヴィシェドスキー氏は「Language evolution to revolution (2019) 」において、人類の文化的進歩と言語の関係について、このようなことを結論づけています。

Armed with the unprecedented ability to mentally simulate any plan and equally unprecedented ability to communicate it to their companions, humans were poised to quickly become the dominant species.
あらゆる計画を精神的にシミュレートする前例のない能力と、それを仲間に伝える前例のない能力を備えた人類は、瞬く間に支配的な種になろうとしていました。(DEEPL翻訳より)

哲学の存在意義を考える上の前提となるのが、言語が果たす役割の大きさです。人類が他の種と比較して何において優れているかと言われれば、言語能力の有無と言えるでしょう。

言語能力を有することによって、ヒトは世界を言葉によって認識することができます。身の回りの事物を言葉によって説明できることにより、頭の中で様々な世界を組み立てることができるといったようなイメージです。そして自らの枠内から物理的に脱し得なかった認識や思考を、他のヒトに直接、あるいは時間や場所を超越して伝達することが可能となります。

すなわちヴィシェドスキー氏が言うところの「ability to mentally simulate any plan(=言語による思考)」と「ability to communicate it to their companions(=言語による伝達)」によって、人類は飛躍的な発展を遂げてくることができたと言えるでしょう。

ここで本題に戻り、哲学の存在意義を考えてみます。それは端的に、我々の身の回りの事物の「言語化」にあると言えます。

哲学が言語化するのは一般的に目に見えないものです。古代の哲学者達は、世界を構成する物質は何であるかを哲学的に探求しました。(万物の根源は火・水・土・空気の4元素からなると説いたエンペドクレスや、いや数が根源であると説いたピタゴラス、アトム(原子)であると説いたデモクリトスなど。)

歴史が下り、世界の科学的定義が進んでいく中で、目に見えるものの多くは、哲学とは異なる分野において「言語化」されていきました。私達は義務教育段階において、万物の根源は元素周期表であることを科学的に認識させられます。このように科学とは、目に見えるものを実証するため再現性も信憑性も高く、世界の言語化は科学的アプローチによって全て達成され得るような感覚を人類に与えるのです。

しかし私達を取り巻く世界の言語化は、決して科学的アプローチによってのみ達成される訳ではありません。すなわち目に見えない感情や思想といった事物の言語化に、哲学は強力にその意義を示してくれるのです。

人類が現前の問題・課題を解決しようとするとき、まずはそれらを言語化するというのが第一段階となります。宗教が死後の世界や幽霊について言語化しているのと同じように、哲学は我々の中にある思考そのものや、思考方法といったものについて言語化の道筋を示してくれる手立てです。

そもそも言語化されていないものを、我々は考えたり解決することはできません。テーブルの向かいに座る友人から、「〇〇ってなんか不快なんだよね~」「◇◇ってなんか違和感あるんだよね~」と愚痴を言われたところで、聞き手であるこちら側としては何とも答えに窮してしまいます。私達が普段生きている中で感じる不快や違和感(またその逆である幸福感)の源泉は、あるいは正体は何なのか。ここを哲学によって規定するところから思考と解決への道は開けると言えるのではないでしょうか。

私の卒論テーマは同期から「闇が深い」と揶揄される反出生主義についてでしたが、これも社会を覆う結婚と子育てへの圧力、生への無条件の肯定に対する不快感や違和感を言語化するという作業の一貫でありました。得体の知れない不快感や違和感が言語として具体化されるだけでも人は安心しますし、何よりそれらの解消に向けて、これまた言語を用いて方策を練ることができます。

哲学の存在意義は言語化にあり。目に見えないものに言葉を与え、より良い社会と生活を希求する人類に福音をもたらす。哲学にはそれだけでも十分な存在意義があると言えます。

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