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キラキラ教職授業|ネガティブな人間が教育現場にいてもいいんじゃないの?

子供に好かれる教師がいる。どんなクラスを担任しても、すぐ子供たちの人気者になってしまう。子供に好かれる教師は、次のような共通点がある。「明るく、優しく、公平であって、知性的である(そして若々しい)。」〔向山洋一(2018)「新版授業の腕を上げる法則」〕

さて久々に教育の話題です。導入には教育界で「教育技術法則化運動(TOSS)」を進めていらっしゃるかの有名な向山先生の言葉を引用させて頂きました。

今回のテーマは「キラキラ教職授業」について。在学生であれば「あ~あの授業はそうかもね」と共感して頂けるかもしれませんが、新入生は何のことやらと疑問に思われる方が多数だと思います。キラキラ教職授業[1]の定義は正直ネットの海をどれだけサーフィンしようが浮かび上がってきません。私が勝手に作った言葉だからです。教育学部生、あるいは教職課程学生が避けては通れないキラキラ教職授業とは何なのか、そしてそこに見るネガティブと教育について紹介&考察していきたいと思います。

1.大学生が子どもに戻ってレクリエーション

特別活動は,「集団や社会の形成者としての見方・考え方」を働かせながら「様々な集団活動に自主的,実践的に取り組み,互いのよさや可能性を発揮しながら集団や自己の生活上の課題を解決する」ことを通して,資質・能力を育むことを目指す教育活動である。(文部科学省「学習指導要領」)

教員はただ教科教育だけを子供たちに授ければ良いわけではありません。特別活動はそういった教科教育の外側に位置づけられる教育的枠組みです。学習指導要領ではその具体例として、小学校であれば学級会・児童会・クラブ活動、中学校であれば学級活動・生徒会活動・学校行事などを位置づけています。大学の特別活動の授業では、こうした活動を教員の立場で執り行う際の手がかりとして、学級レクや人権教育などを例示してくれます。

上記画像にある「他者発見・自己発見マス埋めゲーム」もまた、この特別活動の授業の中で扱われたレクリエーションです。学級開きのときなんかに行うと効果的だよ~みたいな話でしたかね。実際には子供たちに行わせるのですが、実際に大学生がなりきって行いました。

私もコミュニケーションがバチクソうまいわけではないので、なかなかに大変な活動でした。特別活動の授業では他にも、「木の中のリス(以下URL)」なんかもやりました。これはまぁそこそこ楽しかったですけど、中学生とか嫌がる子もいるかもしれませんね。どうでもいいですけど、異性間の交流を伴う活動の気恥ずかしさは私も中学校がピークでしたね。なんででしょうか。

2.生徒指導で愛を語る

生徒指導とは、一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動のことです。すなわち、生徒指導は、すべての児童生徒のそれぞれの人格のよりよき発達を目指すとともに、学校生活がすべての児童生徒にとって有意義で興味深く、充実したものになることを目指しています。(文部科学省「生徒指導提要」)

また授業外の教育的作用として、生徒指導があります。先の特別活動も広義の生徒指導の枠組みの一つと捉えることができます。生徒指導については国立教育政策研究所が出している2枚目画像が分かりやすいですね。簡単に言ってしまえば、学校・社会といった外部環境と子ども個人との関わり方の適正化を図る活動といったところでしょうか。

さてこの生徒指導についても大学の授業で「生徒指導・教育相談の実際」という授業があり、これもまた学部2年の後期で受講しました。校長先生を退かれたおじいちゃん先生が講師だったのですが、先ほどの特別活動よりもキラキラ要素が強いかもしれません。

こちらはその授業で実際に使用されたレジュメです。学校での普段の教員の振舞い方や問題発生時の心構えなどが授業で扱われていました。この「教師十戒」はまさにキラキラ教職授業の権化のような内容で、「真の愛情」「清明の心」といったパワーワードが並んでいます。まいっちゃうね。学科同期は「宗教」と称していました。教育って宗教チックなところ、ありますよね。

3.キラキラ教職授業=ポジティブアプローチ

ここまでキラキラ教職授業と言われるような授業を2つご紹介しました。まだこの言葉の定義付けを行っていませんでしたね。キラキラ教職授業について、私は端的に「ポジティブアプローチ型の教職授業」とまとめたいと思います。

ポジティブとは三省堂大辞林に曰く、「積極的なさま。また、肯定的であるさま。」とされています。まさしく特別活動や生徒指導は、学校の負の側面を絶やし、正の側面を強化するための教育活動であるからこそ、大学の授業もまた先のようなキラキラした言葉や活動が並ぶ授業が展開されているのだと思います。

さてこうした授業には「ちょっとむりぽ…」と嫌悪感を覚える人も少なからずいると思います。実際私はこの手の授業はあまり好きではありません。それは、私が教員になろうとおもった理由自体が、いじめや学級崩壊を経験して抱いた学校独特の負の文化をなんとかしたい、というそもそもがネガティブなものであるからでしょうか。

一方で教育学部に入って「先生になろう!」と志す人の多くは、学校が好きだったとか先生が好きだったとか、そうした学校に対するポジティブイメージが根強い人が多いのではないだろうか?という私のツイートに対しては、現職教員と思われる方からこのような上のような引用RTが飛んできました。まぁそりゃ好きじゃなければその道は選ばない、というのはごもっともですが、それで全てを語るのは尚早であると思います。

4.ネガティブが排除される教育への警鐘

こうしたキラキラ教職授業に特に違和感を覚えない方は、私は心底教員に向いている人だと思います。冒頭で引用した向山先生も、「明るく、優しく、公平であって、知性的である(そして若々しい)」先生が望ましいとされていました。学校や教育の正の側面を肯定できるエネルギッシュで前向きな先生。素晴らしいもんです。こうした素養は天性なのでしょうか。

ただ1つわたしが危惧しているのは、そういったいわゆるポジティブな先生ばかりの教育現場が本当に健全であるかどうか、といった問題です。すなわち、学校に少なからず存在する「ネガティブな子供たち」に、ポジティブ先生は真の意味で寄り添うことができるのだろうか、ということです。

いや!子供たちはみんな本当は輝くことができるんだ!とか、ポジティブな人生を歩ませるのが教育者としての使命ではないのか!といった反論が予想されますが、私はそうした「正しいとされる教育観」こそ、子ども達を追い詰めてしまうことも往々にしてあるのではないかと思います。

特別活動で強制されるコミュニケーションに苦しむ子。生徒指導で諭される美しい言葉にうんざりな子。そんな子たちに、「きれいごとばっかで世の中やんなっちゃうね」と言えるネガティブ先生は、学校から排除されるべき存在なのでしょうか。キラキラ教職授業に違和感を覚えた/これから覚えるかもしれない方は、教育学部や実際の教育現場でマイノリティとして辛い思いをすることもあるかもしれませんが、そうした素養を持つ人が一定数存在する教育界は、私は程よく健全だと思います。

【注釈】

[1]教育学部の授業について…教育学部はこうしたキラキラ教職授業はむしろ少数です。私があまり好きではない某T木先生の「教育学」に関する講義は、そうしたキラキラ要素をかなり省いた、より実利的な内容でした。先生は好きじゃないですけど。授業時間に間に合っていたにも関わらず腹痛トイレ駆け込みでリフレクションシートがもらえないという事件があり、私はルーズリーフに反論文を書いて提出しました。成績は可でした。

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