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「夏物語」の結末から見える、反出生主義の弱さと決して徹底されることはない宿命について。

 小説よりも新書・実用書を好むのは昔からの趣向で、机と一体になった天井まである本棚の、おおよそ8割方の体積は後者によって占められている。そのせいか、あえて小説を読むということになれば、限りなく現実に近しいストーリー(それらは往々にして現実の苦しさ、寒々しさを如実に語るような)を好むという偏屈な性である。

 川上未映子作の「夏物語」を知ったのは、反出生主義をテーマに卒業論文を執筆している最中であった。(論文については以前にnoteの記事でまとめているし、反出生主義自体、最近ではAbema Primeでも特集されるほど知名度も上がってきている言葉であるので、ここではその思想の背景や現況についての詳述は差し控えたい。)


 論文の参考文献として小説を取り上げるのは適当でないため、当時は目を通すことができなかった。しかし反出生主義と関連する「物語」がどのように紡がれているのかがどうしても気になり、最近文庫化されたこともあって読んでみようということになった。

(※以下にはネタバレを含みますのでご注意ください)


1.物語の概要

 大阪の下町で生まれ小説家を目指し上京した夏子。38歳の頃、自分の子どもに会いたいと思い始める。子どもを産むこと、持つことへの周囲の様々な声。そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と出会い心を寄せていく。(本書あらすじより)

 東京に住む主人公の夏子には、大阪に住む姉の巻子と、その子(姪)である緑子がいる。物語の前半は、豊胸手術のために東京へやってきた姉の巻子と、そんな母と口をきかない、緑子の物語となっている。

 後半になると夏子に物語の主軸が移り、彼女は既婚でもなく、交際相手もいない自分でも子どもが欲しいという思いに駆られ、精子提供による出産について調べ始める。その過程で、精子提供によって生まれ、実の父親を知らない逢沢と善百合子と出会い、自身の「子どもが欲しい」という想いに向き合っていく。

 主人公の夏子自体は、「これから先、誰も産むべきではない」という反出生主義の思想を有してはいない。(前提として、「誰も生まれてくるべきではなかった」というのは反出生主義とは異なる。その考え方だと、今生きている人々の生を否定する「反生存主義」みたいなことになるためで、現にある生を否定することを反出生主義は意図していない。)

 物語の前半では姪である緑子、そして後半では、夏子が精子提供について調べる中で出会った、善百合子(彼女もまた精子提供によって生まれているという設定である)の二人が、反出生主義的思想を有していたと言えるだろう。

2-1.緑子の場合



 主人公、夏子の姪である緑子は、物語の前半では12歳である。母である巻子の豊胸手術が東京で行われるとのことで、東京に住む夏子のもとへやってくる。しかし当初の時点では、思春期ゆえの様々な事情から母・巻子とは(数ヶ月の単位で)口を聞いていない。

 母・巻子と、また叔母・夏子とコミュニケーションをとるときは、筆談という方式によっているが、また緑子自身はそれとは別に、日記をつけている。物語の中では緑子が何か話すことは少なく、むしろその日記に彼女の生の苦悩が綴られている。

 だいたい本のなかに初潮を迎えた(←迎えるって勝手にきただけやろ)女の子を主人公にした本があって、読んでみたら、そのなかで、これでわたしもいつかお母さんになれるんだわ、感動、みたいな、お母さん、わたしを生んでくれてありがとう、とか、命のリレーありがとう、みたいなシーンがあって、びっくりしすぎて二度見した。
(中略)
 わたしは勝手におなかが減ったり、勝手に生理になったりするような体がなんでかここにあって、んでなかに、とじこめられているって感じる。んで生まれてきたら最後、生きて、ごはんを食べつづけて、お金をかせぎつづけて、生きていかなあかんのは、しんどいことです。
(中略)
 生理がくるってことは受精できるってことで、それは妊娠。妊娠というのは、こんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるということ。そのことを思うと、絶望的な、大げさな気分になってしまう。ぜったいに、子どもなんか生まないとわたしは思う。(p.59-61)

 子を産むということのリアルは、当然ながら子を宿すことのできる女性の方が大きい。周期的な痛みと出血を伴う体の成長に嫌悪感を抱くことも想像に難くなく、緑子の不安定な感情が日記として綴られている。


2-2.善百合子の場合

 善百合子は物語の後半で、精子提供によって生まれた当事者として、夏子と出会う人物である。彼女の場合、実の父が分からないということだけでなく、幼い頃に義理の父から性的虐待を受けていたという過去の設定も相まって、より反出生主義的思想が強化されている。

 精子提供によって子どもを生みたいと思う、という自身の願望を伝えた夏子に対して、彼女は「人を生むこと」について、以下のように語りかける。

「みんな、賭けをしてるようにみえる」善百合子は言った。「自分が登場させた子どもも自分と同じかそれ以上には恵まれて、幸せを感じて、そして生まれてきてよかったと思える人間になるだろうってことに、賭けているようにみえる。人生には良いことも苦しいこともあるって言いながら、本当はみんな、幸せのほうが多いと思ってるの。だから賭けることができるの。いつかみんな死ぬにしても、でも人生には意味があって、苦しみにも意味があって、そこにはかけがえのない喜びがあって、自分がそれを信じるように自分の子どももそう信じるだろうってことを、本当は疑ってもいないんだよ。自分がその賭けに負けるなんて思ってもいないの。自分だけはだいじょうぶだって心の底では思ってるんだよ。ただ信じたいことをみんな信じているだけ。自分のために。そしてもっともひどいのは、その賭けをするにあたって、自分たちは自分たちのものを、本当には何も賭けてなんかいないってことだよ」(p.525-526)
「生まれた瞬間から死ぬまで苦しみを生きる子どもは、誰であったとしても、でも、あなたではないのだもの。生まれてきたことを後悔する子どもは、あなたではないもの」
(中略)
「愛とか、意味とか、人は自分が信じたいことを信じるためなら、他人の痛みや苦しみなんて、いくらでもないことにできる」
(中略)
「もう誰も」善百合子は小さな声で言った。
「もう誰も、起こすべきじゃない」(p.529-530)


3.物語の中における反出生主義の位置づけ



 最初に紹介した緑子は、その後成長して交際相手との、楽しそうな旅行先の写真を夏子に送っている。夏子自身は物語の最後半で自身の想いを打ち明けた逢沢との間に子を授かり(この表現は適当でないかもしれない。授かるように仕向けた当事者がいるのだから。)、その出産の場面で物語は幕を閉じる。

 物語の中では、反出生主義の思想、つまり子を産むべきではないという考えは確かに登場人物の間隙を、学問的な定義以前の生来的な思想として埋めていた。しかし、本書の中には明確に「誰も生むべきではない」と思う当事者(緑子と善百合子)が存在し、またそのように思う当事者らが主人公・夏子と関わっている一方で、結果として夏子は出産に至っている。

 この物語の結末から見えるのは、社会一般における反出生主義の弱さ(同時にそれは人間の弱さでもある)と、反出生主義は決して徹底されることができないという性質を如実に表している。

 反出生主義の弱さとは、人間の弱さでもある。人は出産という、「他者」を世界に存在させてしまうことによる「他者」のデメリットを勘案する以前に、自分が愛する人の子どもと会いたい、育ててみたい、寂しい人生で終わりたくないといったような、自分自身の愛だとか幸福だとかを先んじて出産の動機付けとしてしまう。

 両性の合意と決意のもと出産という結果に至るなら百歩譲ってまだマシかもしれないが、世の中には以下のように、そういった合意や決意とはかけ離れた次元において、出産という行為を原始的・本能的な見方で捉えている人間がいるというのも事実である。


 

 このような人間の存在は、反出生主義がいかに不徹底な主義主張であるかということをまざまざと思い知らされる。生の苦しみは今に始まったことではなく、そもそも反出生主義的思想自体は古代から連綿と人々の中でくすぶってきていたのである。

 にもかかわらず、それらは結局くすぶるだけにとどまり、社会に対して何ら決定的な影響を与えていない。今は日本の低成長ぶりやコロナ禍といった事象によって一時的に話題となっている「反出生主義」であるが、依然として一部の人だけが主張し続けるマイナーな思想であるだろう。時代は少子化だなんだといいながら、人の存する限り、結局のところ日本の、あるいは世界のどこかで出産という営為は続き、ベビー用品も学用品も売れ続けるのである。


4.小さな嘘



 「存在することの害悪」を取り除くことは、社会全体の、存在者としての責任であるといった結論を提示し、私は卒論の筆を置いた。反出生主義が人間の弱さの前には不徹底であり、社会に広く浸透しない思想であることは哲学者べネターも同様に注釈しており、広く存在する苦痛の軽減あるいは解消を目指すことぐらいしか、私は現実的に反出生主義と向き合う手立てがないと結論付けた。行政職というキャリアを選んだのもまた、社会の苦痛の軽減と解消を少しでも実現することを念頭においたものである。

 しかしながら、先の結論は、ある意味で卒論のために取り繕ったようなものであったとも言える。本当は、人間がどれだけ努力しようとも、人が存することの苦痛をゼロにすることは、到底なし得ないのである。

 「親ガチャ」という言葉が先般ツイッターでトレンド入りしており、それに関する様々な意見の中には「この時代の日本に生まれているだけでもラッキーだろ!」といったものもあった。これ自体は正しい。

 しかしながら、そんなこの時代の日本でさえ、毎年3万人が自死を選ぶのである。幼子の虐待事件の報道は絶えないし、コロナ禍による経済的苦境はもはや日常と化してしまった。どのような時代の、どのような国であっても、「誕生ガチャ」のハズレは排出され続ける。いや、私にしてみれば、生まれてしまった時点でもはやハズレといっても過言ではない。


5.幸福追求の旅路



 そんな私とて、なにも24時間365日、「生まれてきた時点でハズレ…」と感傷に浸っているわけではない。慣れない1年目でも仕事は行くし、いくつかの趣味も嗜んでいるし、将来に備えて信託投資もしている(とりあえず20年後、1000万円貯められればいいなと思っている。)

 生まれてきた事実を消去することは叶わないのだから、もはや死までの一本道の残り距離を、いかに幸福な時間の割合を多く保ちながら縮めていくかということを考えなければならない。

 笑ってしまうほど唐突に降って湧いた生の道を、幸福追求の旅路であると思い込むことで、束の間の人生を歩んでいけるのである。

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