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「やめること」が壊滅的に下手な学校には、きっとそれなりの訳がある。

学校の先生の働き方改革がネットだけでなく国会で叫ばれる時代になりました。これまでは教育界の底層に潜んでいた問題だけに、まずは議論されるレベルまで表面化した、という点では一歩前進したのかもしれません。

しかしながら、現在でもこうした悲しい「事件」は起きてしまっています。富山県滑川市の男性教師が過労死した問題で、市は男性の時間外勤務を「自発的」であり、過労死についても「予見が難しい」として責任が無いことを主張しています。

ツイート内容の繰り返しではありますが、いつ亡くなってもおかしくない労働環境で発生するのが過労死であって、予見できたとかそういう問題ではないはずです。なぜそうなる前に労働時間の削減を行政として命令できなかったのか。これは紛れもない人災と言えるでしょう。

働き方改革がこれだけ騒がれているのに、学校は自身が背負った膨大な量の仕事(もちろん教員がすべきこと以外を含んでいる)を手放さない。なぜ学校はこうも変わりづらいのか。私が思うに、学校は「やめること」が壊滅的に下手であることが関係していると思うのです。


1.国会は学校から部活動を切り離せと言った。

昨年10月から12月にかけて行われた第200回(臨時)国会において、衆議院閣法第14号付帯決議なるものが出されました。不規則で把握しづらい教員の業務に対しては残業代を払わずに、月給4%分を「みなし残業代」として支給する、いわゆる給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法の一部を改正する法律案)に関する付帯決議です。

給特法についてはこのような記事があります。ご参考までに。

先の付帯決議は教育界隈でちょっとした話題になっています。それは、教員の長時間労働の原因として筆頭に挙げられている「部活動」について、以下のような文言が盛り込まれていたからです。

七 政府は、教育職員の負担軽減を実現する観点から、部活動を学校単位から地域単位の取組とし、学校以外の主体が担うことについて検討を行い、早期に実現すること。

これはつまり、部活動を学校から切り離し、地域の活動として組み直すよう政府に求める内容となっています。

部活動については、教員は事実上の無償労働を強いられています。ただでさえ授業準備や校務分掌(学校における授業以外の必要な仕事)で忙しいのに、最低賃金を大幅に下回る手当で土日の部活動も監督するといった状況が、これまで当たり前のように全国の学校で展開されていたのです。

それが今回、国会がこのような決議をしたことによって、遂に政府が重い腰を上げて教員の働き方改革に動き始めたといった期待が高まりました。


2.部活動切り離しに抵抗する子ども達

ところが、SNSではこの決議に対して「反対」の声を上げる子ども達もいるのです。実際のやりとりが次のツイートです。(ツイート主は伏せています)

コメント 2020-01-21 175606

ツイート主はおそらく中学生で、吹奏楽部に所属しているものと思われます。部活動の地域化について教員の労働環境のことを差し置き、「やる気のない教師」「ふざけた大人と国のせい」とおっしゃる始末です。

おそらく、こうした声は様々な場所から上がってくることでしょう。部活動はこれまで数十年に渡って学校で行われてきた。部活動で友達もできた。大会の感動はひとしおだった。みんなで一つの目標に向かう姿は美しかった。そんな営みをなぜやめてしまうのか…と。

しかし私は逆に問いたいのです。

なぜ学校は、こうも何かをやめることに腰が重いのか。


3.内面教育は「見えづらい」営みだからこそ

先ほどの疑問に対する私なりの答えはこうです。

学校教育とは「効果が見えづらい」部分もあるからというものです。

確かにテストの点数だとか、通知表の評定だとか、教育にも学力のように簡単にその効果が数値化できる部分はあります。これらは「見えやすい」営みであるため、成績向上のためにこれをやってみよう、の他にも、「これは成績を下げそうだからやめよう」といった選択肢を比較的選びやすいものと思われます。結果が分かりやすいから、やめることも簡単なのです。

しかしながら、教育とは時間をかけて、人間性(つまりは内面)をじっくり育てていくといった部分もあるのです。子供の内面の成長は外側からは見えづらく、その結果生徒の様子やアンケートといったやや不十分な効果測定によってしか、成果を確認しづらいのです。

給食は残さず食べましょう。

挨拶は必ずするようにしましょう。

授業中の水分補給・トイレは厳禁です。

女子はスカートの丈、男子は髪の毛の長さを揃えましょう。

そして、部活動に入りましょう。

これらの営みは、表面上は人間の内面形成に良く働いているように見えるのです。ご飯をしっかり食べ、元気で、真面目に授業を受けていて、身なりが整っており、勉強以外の活動にも真摯に取り組む姿は、まさに理想の子ども像。そこには内面に問題を抱えた子どもの姿は見えません。

そして外側から見た子ども達の姿が「なんとなく良さそう」に見えれば、それを効果として扱うことがまかり通ってしまうのです。成果が具体的に出なければ、その取り組みや活動は引き際を失います。だって「良さそう」に見えているんだし、やめるなんてもったいない。子どものために頑張ってやろうよ。やめようだなんて君、何て冷たいこと言うんだ。

そういった空気が、学校には確かにあるのだと思います。


4.持続可能な学校教育を作りたい

私は先ほどのツイートをしていた中学生を「大人の苦労を考えない愚か者」として非難したいわけではありません。彼が吹奏楽をしたいのであれば、別の形で取り組めるような環境を作れば良いと思っているだけです。

いずれにせよ、学校は様々な「教育上良さそうな取り組み」を抱え込みすぎました。今や学校と言う電車は、屋根の上に人を乗せないと運行できないほどに、仕事と称した何かを詰め込みすぎているような気がします。

学校は、手放す勇気を。そしてロジカルな運営を。

私が学校教育に求めたいのはこのようないたってシンプルなことなのです。先生も子どもも不幸になるような学校は社会不安を招きます。先生が過労死したり、子どもが自殺したり、ここは戦場ですか。違うでしょう。より良い学校を作るために何ができるか、もっと考えていきたいと思います。

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