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総理大臣のいない国家、それが日本!!(憲法夜話)12

「不磨の大典」の息の根を止めた現役制

山本内閣は「軍部大臣現役武官制」を廃止した。

ところが、このせっかくの遺産を台無しにしたのは広田弘毅内閣である。

2・26事件直後の昭和11年(1936)5月、広田内閣はなんと迂闊にも現役武官制を復活させてしまったのである。

すると、たちまち陸軍の政局支配は復活してしまった。

そして、せっかく戦前の日本に定着するかに見えたデモクラシーも議会政治も、これによって雲散霧消してしまった。

以後、日本の政局はすべて陸軍の意向によって左右されるようになった。

浜田国松、斎藤隆夫両代議士がいかに反軍演説をしたところで、陸軍の暴走を抑えることはできなくなったのである。

現役武官制度の復活は、憲法の大改革にも増す効力を発揮した。

大日本帝国憲法は「不磨の大典」として1ミリも改正されることがなかった。

だが、現役武官制の廃止・復活は、憲法の改正・改悪もとうてい及びもつかないほどの大変化をもたらしたのである。

憲法とは本質的に慣習法であり、「事情変更の原則」(状況の変化によって、憲法が空文・死文になること)の作用も受ける。

したがって憲法そのものは少しも改正されなくても、普通の法律が改正されたことで憲法の大改正・大改革以上の変化が起こりうる。

このことを「軍部大臣現役武官制」の廃止・復活の活劇は如実に示しているのである。

いや、憲法の機能に重大な影響をもたらすのは、何も法律の改廃だけではない。

ほんの小さな慣行であっても、それは憲法の機能に大きな変化を与えうる。

そのことを示しているのが、三長官会議による陸軍大臣の推薦という「制度」であった。

宇垣内閣を潰した「三長官会議」

大正14年(1915)の宇垣陸相以来、後任の陸軍大臣は「三長官会議」が一致して選んだ候補者を任命すべしという慣例が成立してしまった。

三長官というのは、参謀総長、陸軍大臣、教育総監の三人である。

この三人が推薦してくれなければ、総理大臣はクビにした陸軍大臣の後任を見つけることができない。

もし三長官会議が「該当者なし」という回答を出したら、その総理大臣は組閣に失敗したことになって、辞職をしなければならないわけである。

昭和になって軍部が暴走するようになる下地は、この軍部大臣現役制復活と三長官会議から始まったと言っても過言ではないが、それをもたらした原因はまさに憲法の欠陥(明文化されてはいないが敢行上の欠陥)であった。

軍部大臣現役武官制を復活させた広田内閣が総辞職したあと、組閣の大命(だいめい:首相として内閣を組織せよという天皇の命令)が降下したのは前朝鮮総督であった宇垣一成大将であった。

昭和12年(1937)1月のことである。

宇垣がさっそく三長官会議に対して、陸軍大臣の推薦を依頼したのは言うまでもない。

ところが、これに対して三長官会議の答えはどうであったか?

「陸軍の大・中将の中には、一人も陸軍大臣の引き受け手がいない」と答申したのであった!

はたして、三長官会議はすべての大将、中将に陸軍大臣就任の意向を確認して、この回答をしたのか?

その答えは言うまでもあるまい。

調査もしないで、三長官会議は結論を出しているのである。

だが、そうと分かっていても宇垣大将は何をすることもできない。

三長官会議はすでに慣行として定着してしまっていて、彼に抵抗の余地はないのである。

せっかく天皇から組閣の大命を受けながら、宇垣大将は組閣を断念せざるを得なかった。

この宇垣内閣の流産以後、首相の人選はすべて陸軍の意のままになったことは言うまでもない・・

つづく

【参考文献】『日本国憲法の問題点』小室直樹著 (集英社)

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