「ほんとうのほんとうの神様」 あるクリスチャンの信仰のはなし
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
自己紹介に書いてある通り、私はクリスチャンである。宗派的にはプロテスタント。
現代日本では、特定の信仰を持つことはあまり一般的ではない。
日本のクリスチャン人口は1%、とは昔から聞く話。むしろそんなにいるかね。
今日は、なぜ私がクリスチャンになって、今でもクリスチャンであるのか。
そういうことのど真ん中を、お話ししたい。
※宗教やキリスト教に興味がある、あるいは異文化をのぞいてみたいという方は歓迎ですが、そうでない場合はおすすめしません。読んで「気持ちが悪い」「頭がおかしい」と思われるのは自由なのですが、コメント欄には書かないでください。そういうことは言われたくないからです。
また、クリスチャンの方も、「なんか違うな」と思われるかもしれません。ここに書いたことはどこまで行っても私のことであり、普遍性を主張するものではありません。あなたの信仰とは違っているはずです。どんなに違っていても私たち、互いに裁きあったりしないようにしましょう。
※4000字超
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母、病と救いを得る
きっかけは母が病を得たことだった。舌がんだった。
まだ30前後だった母は、自分が患ったことを知ったとき、死を意識した。
そして、娘2人を見て、こう思ったという。
「この子たちに、支えになるものが必要だ」
私と、2歳下の妹。
私は小学校に上がるか上がらないかだった。
クリスチャンのママ友の誘いを受けて母は教会に通いだし、洗礼を受けた。その教会は私たちもたぶん何度か連れていかれたはずだが、ほとんど記憶にない。
(※母はその後何度か手術を受けたが現在も元気に暮らしている)
やがて引っ越して、現住所に(猫ミーヤも連れて)私たちは暮らし始めた。
母は受洗した教会からの紹介で、引っ越し先の教会に転入した。
私たち姉妹は、近所のお姉さんたちと一緒に、徒歩5分ほどの教会学校へ通った。
教会の礼拝にも出席した。自転車で行ける距離だった。
通いやすい近さというのは、今思えばものすごく重要だった。
キリスト教の信仰 クリスチャンとは何者か
さて、キリスト教の信仰の中身とは、具体的に何か。
これは案外、説明が簡単なようで簡単ではない。
ここはやはり鉄板の、ヨハネの福音書3章16節にご登場願おう。
ヨハネ3:16は「聖書の中の聖書」と呼ばれている。
ここに、聖書の教えが凝縮されている、という意味で。
クリスチャンというのは、上記の信仰を持っている者である。
神がマジで自分を愛してるし、キリストが自分の罪のために死んだ(&生き返った)から、自分も体は死んでも究極的には死なない、永遠の神の国に国籍がある、
と信じている人のことである。
「なんか人智を超えた大きい存在ってあると思うんだよね」というのとはまた違う。
person(人格)を持った神と、自分がpersonal(個人的)な関係を持つ、
それを大前提として日々生きる、ということである。
地球は丸い、と思ってみなさん生きておられると思う。
それと同じ感じ。
信仰とは依って立つ地面である。そこで全てのことを行う。
聖なることも、俗なることも。
なので、私のnoteは、オタ記事だろうが、ネタ記事だろうが、
その地面の上で書かれている。
子どもの「信仰」を脱ぐとき
小学生のころの「信仰」は、ただ単に「天国に行ける私」というだけのものだった。
私は自分が「いい子」であると信じ込んでいたし(この誤解はかなり後まで続く)、「罪」の自覚もなかった。
学校が嫌い、集団生活が苦手、というのが人生最大の悩みだった。
中学に上がり、とげとげしい空気の学校生活。教会の先生や母に祈られながら乗り切った。
今でも覚えている、一番つらかったとき、
教会の集会でその日最初の賛美歌が「かいぬし我が主よ」だった。
私はなんでかわからない、でもとにかく涙が出て涙が出て、泣きながら、歌えないくらい泣きながら、歌った。
「われらは 主のもの 主にあがなわる」
私の悲しみを、神さまはわかってくれている。
そのこと一つで生きていた日々だった。
中3のとき、洗礼を受けた。無神論者の父は「高校に入ってから」と言っていたが、ややフライング。自分で希望した。
高校に入学すると悩みの種類は変わった。
誰がどこで何をしていても構わない自由な高校で、息がしやすかった。
日常が楽になり、より広い世界で、新しいものが見えてきた。だからこその悩み。
「私はこのままずっと『クリスチャン』として生きていくのか」。
「この世でこれだけが真実・正しいなんてことがありえるのか」。
「私は宗教なんて信じない。それなら自分が教祖になる」
と私に言ったクラスメイトがいた。
攻撃的なわけでもなんでもない、穏やかな優しい子だった。
神さまなんかいない。いても知らない。関係ない。
そういう声ばかりが、周囲にはあふれていた。
聖書を読んでも、納得できないことがたくさんあった。
考えても全然わからないことも。
それでも私は、「クリスチャン」としてこの先もやっていくのか。
「キリスト教」を信じていくのか。
信じるという「賭け」をする
高校2年生のとき、教会の中高生でメキシコに行った。現地の教会でお手伝いをするツアーだった。
初の海外旅行でメキシコ。夏だった。日差しは強いが、涼しかったのを覚えている。
都会にありながら緑豊かなその教会の庭で、
私は「賭けをする」と決めた。
頭で考えて理解できることは、「信仰」の対象じゃない。
本当に神さまがいるとかいないとか、
それが聖書の言う神さまであるとかないとか、
聖書に書いてあることがよくわからないとか納得いかないとか、
そういうの全部飛び越えて、
私は自分の人生を神さまに任せる、そっちに「賭ける」ことに決めた。
(ここの「なんで!?」は説明が難しい。
神さまを信じない自分を想像したとき、それはろくでもない自分だろうと確信したから、というのが一つのありうる答えだ)
それからは迷いなく人生を歩み、
……と言えればカッコいいわけだが、その後も迷いだらけで、「賭け」を投げ捨てようとしたことも何度もあった。
いつ、クリスチャンじゃなくなって教会に行かなくなってもおかしくなかったが、今でも私は「信仰」を持ち続けている。
それは私の努力とかじゃなくて、神様の恵みである。
就職も、転職も、手術を受けるときも、神さまに祈って決めてきた。
そして、私は神さまに裏切られたと感じたことがない。
「そんなんでなしにほんとうの」
幼いころの「信仰」は、親や先生の「信仰」だった。
お母さんが信じている神さま。教会の先生がいう神さま。
しかし誰もが「成長」から、「自立」から逃れられない。
他人の「信仰」ではやっていけなくなる。納得できなくなる。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』では、青年に連れられた姉弟が汽車に乗り込んでくる。
別れの間際、女の子とジョバンニは口喧嘩をする。
女の子はもう汽車を降りて天上へ行く、と言う。
私は全編でここが3指に入るほど好きだ。
ジョバンニのことばの切実さ。
「ほんとうのほんとうの神さま」は、一人一人が出会うしかないもので、
誰かの神さま、ではないのだ。
同じ宗派でも。
同じ教会に通っていても。
あなたと私の「信仰」は違う。
あくまで個人的なものだから。
私はそう思う。
「そんなんでなしに」を2度言ったジョバンニ。
そうじゃなくて、そうじゃなくて、……
そうじゃなくて、を重ねた先に、「ほんとうのほんとうの神さま」がいる。
言葉にならない呻きをもって
子どもの私が、「ねえ」と言う。
「私だって ちゃんと信じてたから
何を『大人』がえらそうに
やっぱり何にもわからなくなったんだね」
高校生の私が、「おい」と言う。
「今のあんたは迷い疑い問い求めることを放棄して
惰性でクリスチャンのふりをしているだけなんじゃないの」
これを書いている私が、「ちょっと待って」と言う。
「こんなに長々と書いてきたけど なんか違う
やっぱり信仰は生きるものであって 書くものではないんじゃないか」
言葉にする端から、「そうじゃなくて」がわきあがる。
論理の世界とは次元が違うから。
なので、こんなに長い話を読んでくださったのに、何も伝わらなかっただろうと思うし、
伝わった感じられたことはきっと別のことだろうと思う。
聖書には、「なんて言ったらいいのかもうわからんのや……」ってなっちゃった人のための聖句もちゃんとある。私の好きな箇所である。
クリスチャンには仕事がある。
「証し」をすること。神さまと自分の関係について話すこと。
たとえ、うまく話せなくても。
noteという場で、今回させていただいたのは、それに近いものである。
……神さま、そういうことでよいでしょうか?
もし、最後までお読みいただいた方がいらしたら、
特別厚く御礼申し上げ、
神の祝福をお祈りしたい。
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