Bd.3: 他を知り、自を知る。

殊、語学ではざせつばかりしてきた私が、
語学塾というところを初めて訪れた。

国分寺駅北口の、商店街と住宅街の汽水域みたいなあたりに
語学塾こもれび」がある。

他言語を得るとはどういうことなのか。
言語習得に掛る3人の自叙をもとに、
「母国語と他言語との関わり」を考えるという
勉強会に参加してきた。

輪読をもとに、母国語と他言語を対比してみる。

たとえば、ふだん日本語だけを使って生きていると、
言葉を発するのに舌の形とか位置なんてものは気にしないし、
幼少期を振り返ってもそんなことを意識した記憶もない。

たとえば、他者の話す言葉は、
よかれあしかれにかまわず耳から入ってきて、
それに一喜一憂振り回されたりする。

たとえば、道具としての「言語」は
日本語一つしか持ち合わせていないのだから、
日常で「使わない」という選択肢なんてないし、
そもそもそんな発想にも行きつかない。

でもそれらは普遍的な原理原則なんかではなくて、
他言語になったとたん、事情ががらりと変わる。


発音の仕方なんて全く意識していなかったのに、
「この音を出すときは、舌を歯のどのあたりに当てて、」
みたいなところから始まって、
舌の操りに神経を集中させていることに気づく。
まるで楽器を吹いているかのようだ。

耳から入る言葉だって、一喜一憂する暇なんか与えてくれない。
意味を知らない言葉は「単なる音声」でしかない。
預かり知らないフランス語の音は、
お祭りのお囃子に近しいものを感じた。
ひとつ言語を習得すると、こんどその言語を耳で聞いたときには
意味を拾ってしまうから、「音だけ聞くことはできなくなる」のだという。

しかも、他言語を使うタイミングは極々限定的ときたもんだ。
テキストには、ひざを打つような一文があった。

「時々入れてはまた切って、というスイッチのような存在」
(引用)『べつの言葉で』 ジュンパ・ラヒリ

電化製品に例えれば、私にとって日本語は冷蔵庫みたいなもので、
留守にするときも電源は入れっぱなしだし、
そもそも切ろうなんてことは考えない。

ところが、外国語となるとどうだろう。
時々、なんて立派なもんじゃなく、
気が向いたときにスイッチを入れるような感覚。
例えるなら、「台所の戸棚でホコリかぶってるホットプレート」
といった塩梅だろうか。
いろんな料理に使えるらしいけど、使いこなしてなんかなくて、
洗うの面倒だし、年に数度すき焼きやるときしか使わない…… みたいな。


勉強会の最中、気になった一節が
自分の言葉と言えるほど日本語を操れているのか?」という問いだ。

いうまでもなく、私の母国語は日本語だ。
かれこれ四半世紀以上も日常使いしてきている。
だけれども、私は日本語を本当に自分の言葉にできているのだろうか。

正直にいえば、私は自分の考えや思ったことを
的確に表現するのには時間がかかるし、推敲も要る。

感想や主観をなかなか言語として取り出せずに、
もやもやすることもままある。

この記事一つだって、書いちゃ消し、消しちゃ書きを繰り返しながら
青息吐息で仕上げたりしている。

それからすれば、日本語を自分の道具にし切れているだなんて
まだまだ胸を張れないんだ。

いずれも、言われてみれば、気づいてしまえば、厳然とそこにある(あった)事実だけれども、意識をしなければ気づかない。
他を知ってこそ、自を知るきっかけになる。

井の中の蛙ではいけないよなあ…… と気づかせてくれた出来事だった。

2019.9.18追記
語学塾こもれびの公式レポートがアップされました。

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