見出し画像

仏教ってなに? 応用編ー1

自分を脱却する為の複数の道

 基礎編では釈尊が説かれた基本的な教えを概観致しました。ここからは、それら釈尊の基本的な教えが、その後どのように受け止められ、実践されてきたかを見ていきたいと思います。
 基礎編の最後の方でご説明致しましたように、中道を知らない無明(無知)に囚われた人は、自分という一つの視点を設定し、その自分という視点を設定することによって、自分以外の多数の他者を仮構することになり、その多数の他者に対して、愛、憎、執着するが、全ての他者は自他分離の妄想によって仮構されているために、本来的に分離・軋轢をその本質とし、愛と分離、憎と軋轢は不可避であり、その苦悩は中道を悟るまで続くというようなお話をしました。
 ただし、中道を知らないと言っても、端的に言えば中道を完全に悟った釈尊以外は、人も生物も全て中道を知らないわけですから、このものごとの本来の在り方を知らない無知による自他分離の妄想と言うのは、単なる人間の勘違いみたいな、表層的な話ではなくて、我々が経験している世界そのものが創造されるに到るほどの根源的な妄想の話をしているわけです。
 このサイトの最初の方でもご説明しましたように、仏教的な世界観では、この世界は、普通の人々が思っているように、自分の外に客観的な物質世界が広がっているとは考えずに、一見我々の外に広がっているように見える世界は、実は我々の内面に広がっている世界であり、その内面から来ている情報が一人一人の意識を通じて外側へと投影されていると仏教では考えるとお話ししました。
 又、現代物理学でも素粒子の状態確定には人間の意識が決定的な役割を果たしていることが分かっており、物質世界が人間の外にあると仮定すると、素粒子の状態は人間の意識に届く以前に既に確定しているはずなので、人間の意識が関与するまでは、素粒子の状態は確定しないという事実が説明できなくなることも分かっています。ただ、この話をあまり詳しくし始めると、またまた量子論の観測問題や多世界解釈などの現代物理学の世界観の話を長々とすることになってしまうので、興味のある方はご自分で調べて頂ければと思います。
 詳しい論拠は今後おいおいご説明して行く積りですが、とりあえず話を先に進めるために、仏教的世界観に基づいて現代物理学の最先端の世界観を参考にしながら結論だけ言いますと、その内側から来ている情報というものも全ての人に共通の画一的な情報が来ている訳ではなくて、あらゆる可能性を含む情報が来ていて、その多数の可能性の中の1つを毎瞬各人の意識が選択しながら各人の外側の世界として投影していると言った方が正確かもしれません。
 従って、毎瞬各人の意識の外側に投影される世界の展開の仕方は、各人の意識の状態によって左右される訳で、全人類が全く同じ未来を共有している訳ではないということです。極端に言えば、人それぞれによって展開される未来は違うということです。もっと言えば、人によって見ている世界は違うということです。
 我々、全人類、全生命は、一つの宇宙・一つの歴史・一つの未来を共有すると、つい最近まで常識のように思われてきましたが、最新の量子論や宇宙論に依れば、人類が生存できるような環境が宇宙の中で偶然に出来上がる確率は10の1200乗分の1位の確率だそうで、宇宙が1つしかないとすると、そのような確率の出来事が偶然に実現することはありえないそうです。ところが実際人類は存在しているので、その事実を唯一合理的に説明する方法は、10の1200乗通りの宇宙が出来たと考えるしかないということです。
 早い話が、人類なんていない宇宙もあれば、地球なんて存在しない宇宙もあるわけで、ありとあらゆる可能性が全部それぞれの宇宙として実現していれば、その中の一つには人類が登場する宇宙も当然あるだろうし、人類の歴史にしてもそれぞれ違う宇宙が無数にあるかも知れないのです。そこにいる人類がそこから過去を振り返れば、奇跡的な偶然が重なって人類が誕生したように思えるだけで、実は、無数にある宇宙の中でたまたま人類が誕生した宇宙の中に居るから、そこには人類が居るのは当然であって奇跡でも何でもない、というのが最新の宇宙論の考え方です。
 この10の1200乗分の1と言うのはどんでもない数で、例えば、宇宙が出来てから今日までおよそ150億年が経ったそうですが、それを秒数に直すと47.3x10の16乗になります。つまり、47京3040兆秒ということです。
 150億年と言う時間を秒に直しても、たった10の16乗ていどですから、1秒の何億分の1位の瞬間ごとに1億通りの宇宙が枝分かれしながら、150億年間に渡って無数の宇宙が出来上がってきたとしても、まだ1200乗という数にはならないほどのとてつもない数なのです。
 そして、われわれの住んでいる宇宙はこの瞬間にでも毎瞬の無数の可能性の数の宇宙が枝分かれしていて、その中の1つを我々一人一人の意識が毎瞬選択して行っているものと思われます。
 このように、我々一人一人の意識というものは無数の可能性の中から毎瞬1つの可能性を選択しながら自分の周りに世界を投影しているものと考えられるわけです。ただ、仏教的に言えば、無数の可能性と言っても全ての可能性の実現可能性の確率が全部同じなわけではなく、自分の過去からの行いの積み重ねの記憶に応じて、実現可能性の確率がある程度規定されているので、意識の方で積極的に働きかけずにただ受動時に漫然と人生を過ごしていると、自動的に一番確率の高い宇宙を選択するようになっています。この論拠についてもおいおいご説明して行く積りです。
 このように、各人が経験している世界は各人が過去から積み重ねてきた行いの結果としての記憶に基づき、ある程度の偏りのある確率の中から、毎瞬意識が選択し、投影した世界であるということです。従って、自分が見聞きするものは全て自分自身の選択の結果であって、他の誰のせいにもできないものであると言うことです。
 結局やっぱり、宇宙論の話までしてしまってだいぶ脱線しましたが、今回言いたかったことは、そのようにして、根源的な無知によって出来上がってしまった自分と言う妄想から脱却するには、幾つかの方法があるということです。
 釈尊は、相手に応じて、直ぐにでも実行できる方法から、とてつもなく長い時間をかけてじっくり取り組んでいくしかない方法など、様々な方法を示されました。これから、そのことについて、説明して行きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?