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モルディブ・リッツ滞在記8【名医ヤブー】

▽不都合なケガ

ガラにもなく、はしゃぎ過ぎたのだろうか。

到着してすぐ部屋の中を眺めて回っているとき、右足の親指を軽くケガしてしまった。扉の隙間に指を挟んでしまったのである。

単純な切り傷・擦り傷と言うには少々深かったこともあり、僕はたまたま鞄の中にあった最強の絆創膏「キズパワーパッド」を貼った。日本の素人の応急処置というのは、9割方はこんなものであろう。

しかし、ここはモルディブ。次はいつ来られるかわからない。楽しみ尽くして帰りたい。

やりたいことがたくさんある中、傷を気にし続けるのはあまりに勿体ないではないか。「足を濡らさないように」などと悠長なことを言ってられない。

たとえば、海に入りたい。

はいりたい

たとえば、プールに入りたい。

はいりたい

たとえば、ビーチサンダルで真っ白な砂浜を歩きたい。

あるきたい

もちろん写真にある通り、全部できたので心配しないでほしい。決して、自慢のために貼ったわけではない。

いろいろ活動が控えているので、キズパワーパッドを補強しようと安いテーピングを巻いてみたが……少し歩いたら剥がれてしまった。これでは具合が悪い。

バトラーにチャットを送ってみる。すかさず「うちにはクリニックがありますよ」と返信が届いた。仕事が早い。

キズパワーパッドはもう貼ってしまったが、どうせ大した傷でもあるまい。テーピングでももらいに行こう――。

目に痛いほど緑鮮やかな茂みをかき分け、僕らはクリニックのドアを叩いた。ここでもまた、思い出深い出来事が待っていた。

中央奥がクリニックの扉。秘密基地?

▽名医ヤブー

迎えてくれた医師は、浅黒い肌の若者だった。おそらく僕らと同じ30歳過ぎくらいではないかと思う。

おそらく名乗ってくれたと思うが、忘れてしまった。かわりに僕ら夫婦は、彼のことを「ヤブー」と呼んだ。語源はあえて伏せよう。

海外旅行はこのあたりが面白い。面と向かって日本語で色々言っても、相手には分かりはしないケースがほとんどだ。

伝わるだけがコミュニケーションではない

たとえば店に入って、手に取ったものの値段が高ければ「高いな」と普通に言う。店員は分からないので、とりあえずニコニコしている。国内では味わえないシュールな空気になる。

そう、言葉が通じないというのは、意外と愉快だ。

日本で医者を指さして「ヤブ」と言おうものなら大変なことだが、海外では知ったことではない。

向こうは向こうで、こちらの知らない言葉で話しているのでお互い様だろう。ただ、なぜか悪態をついている時だけは伝わったりする。人間とは不思議なものである。

▽処置

「どうしましたか」。ヤブーはかすれた声で聞いてきた。

なんだか、異国で医者にかかるのはどうも心細い。それがたとえ、足の小さな切り傷だったとしても。

僕は事情を話すと、医師ヤブーは神妙な顔で「傷を見せて」と言ってきた。

「テーピングと替えのバンドエイドをくれれば良いんだけど」と話したが、彼は折れない。かたくなに首を横に振る。

ヤブーはやがて奥から小さな蓋つきのゴミ箱を出してきて、とりあえず足を置いて見せろと言った。

仕方ない。相手は医者なのだ。おとなしく足を出した。ヤブーが剥がしたテーピングの中から、キズパワーパッドが出てきた。

僕は「ほら、これを貼ってるから大丈夫だよ」と訴えたが、彼は首をかしげるばかり。そして、剥がしはじめた。

さっき貼ったばかりのキズパワーパッドを、である。「なんだこれ」と不思議そうに。

パッドの剥がされた縁が傷口に近づくにつれ、嫌な予感が確信へと変わってゆく。

あ、この人知らないんだ、キズパワーパッド。

たぶんこんな顔をしていた

もちろん、キズパワーパッドの海外シェアを調べなかった自分が悪いのである。

密着しているはずのパッドが、目の前で少しずつ剥がされてゆく。傷口の皮ごと、もっていかれるかもしれない。ひい、やめてくれ。

※イメージ(出典はPixabay)

僕の恐怖が伝わったのだろうが、ヤブーは「なんでこんなにスティッキー(粘着質)なんだ」とボソボソ語りかけてきた。

違う、そうじゃないんだ。でももう説明を諦めるしかない。

結局、ヤブーはひと思いにめくるような乱暴なことはせず、ちょっとずつ剥がしてくれた。傷口を慎重に露出させて、あとはぴりぴりと取り除いた。

あぁ、僕が持って来た、たった1枚のキズパワーパッドが。

「もうこんなの使っちゃダメだよ」と、ヤブーは優しく諭してくれた。「うん、わかった」と言うしかない。

妻が廊下から処置室をのぞき込んで、うわ痛そう、と顔をしかめて回れ右した。

▽ジャスト・スキン

ヤブーは傷口を露出するべきだと言った。そのために、傷口を覆っている直径5㍉くらいの皮は、切ってしまう必要があると。カラカラと音を立てて金属の台からハサミを掴んで、僕に向かって上目遣いで言った。

「ジャスト・スキン」
皮だけ切っちゃうよ、という意味に過ぎない……わけだが、その2単語を語りかけるヤブーからは底知れぬ迫力があった。

「ジャスト・スキン」。洋画のタイトルにでもなりそうだ。これだから英語はズルい。僕は腹を決めて頷くしかなかった。あぁ、まな板の上の鯉。

ジャスト・スキンの重み(体感)

ヤブーは皮を切りとって、消毒をし、綺麗なバンドエイドを貼ってくれた。痛くはなかった。

「寝るときとかはなるべく傷口を空気に触れさせておくように」などと細々指示をくれ、予備のバンドエイドも大量にくれた。

「海に入るときは?」と尋ねると、ヤブーは小さく首を振った。

「海やお風呂で濡らすのは、できるだけ避けたほうがいい」

僕はこの指示だけは守らなかった。

しかし傷口は膿むこともなく快癒し、帰国後は小さな跡がのこっただけであった。彼の処置はまったく正しかったのだ。

後日、彼のもとに経過を報告しに行ったところ、また大量のバンドエイドをくれた。

ありがとう、ヤブー。君は、僕が知る中でモルディブいちの名医だ。

元気じゃないと勿体ない!

(続き)

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