【連載】ノスタルジア大図鑑#04|昭和の子ども 遊び生活史① 空き地の向こうにあったもの
昭和やそれ以前、物心ついた頃からあたりまえにあったもの。
めまぐるしく移り変わる時代の中で、気づいた時には無くなっていることも。
さまざまな理由で「このまま放っておいたらいつか無くなってしまうかもしれないもの」、後世までずっと残して受け継いでいきたいと思う「日本の文化・日々の暮らしの中の物事」を取り上げ、個性豊かな執筆陣による合同連載<ノスタルジア大図鑑>としてお届けしていきます。
今回お届けするのは、昭和のサブカルチャーや漫画研究・漫画原作の分野で活躍する黒沢哲哉さんによる<昭和の子ども 遊び生活史>。
かの有名アニメの黄色い服の主人公が、いつも同級生にボコボコにされている土管のある空き地。
そういえば、坊主頭の次男坊が草野球でいつも隣家のガラスを割ってしまう空き地にも、土管が積まれていますね。
日曜夕方のアニメで見慣れているからか日常的な風景に感じがちですが、令和の街中には、土管の積まれた空き地を見ることはほとんどないでしょう。
そんな、幼い頃の思い出が詰まった“あの日の遊び場”を探す旅にでた黒沢さん。
記憶の場所へ辿りつけたのでしょうか……?
第1回:空き地の向こうにあったもの
筆者が子ども時代を過ごした昭和30〜40年代、東京近郊には至る所に空き地があった。
こんもりとした雑木林の木が伐採されたり、池や田んぼが埋め立てられて更地となる。そこにはやがてアパートや建売住宅が建つことになるのだが、それまでの間、そこは雑草が生い茂る広大な空き地となる。
その空き地は子どもにとって最高の遊び場だった。公園のような遊具があるわけではないが、遊びには事欠かない。鬼ごっこ、戦争ごっこ、チャンバラ、昆虫採集、凧揚げ、ドッジボール、三角ベース野球などなどなど……。
空き地で西部劇ごっこ中のスナップ。左端が筆者。昭和39年ごろ
こちらは雪の中で友達とコンバットごっこ中。敵の銃弾をかわすために匍匐(ほふく)前進している
3年ほど前のことだ。埼玉県北部の某所をドライブしていたとき、不意に懐かしいものが目に飛び込んできた。空き地に直径1.5メートルほどのコンクリート管が野積みされていて、その奥に高圧線の鉄塔がそびえ立つ風景である。
ぼくは思わず車を停めて、持っていたデジタルカメラでその光景を撮影した。あいにくそこで遊ぶ子どもの姿はなかったが、ファインダー越しに見た光景は、まさしくぼくが夢中で遊んだあの空き地そのものだった。あのころぼくらはこのコンクリート管をかくれんぼや密談の場所として使い、大切なものを持ち込んで秘密基地を作り、大人に内緒で野良犬を飼ったこともあった。
埼玉県北部で発見したコンクリート管と鉄塔の風景。以下の画像は 3点とも平成30年6月撮影
コンクリート管に近づくと草の匂いがただよい、あのころの記憶が蘇る
この穴を見ると思わず入りたくなるが、大人なのでやめておいた
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ちなみにこのようなコンクリート管を土管と呼ぶことがあるが、土管というのは文字通り土を焼き固めて作った管のことで、コンクリート製の管はヒューム管という。だけどまあ固いことは抜きにしてここでは土管で通してしまおう。
土管のある空き地というと今は藤子・F・不二雄のマンガ『ドラえもん』を思い出す人が多いかも知れないが、じつは昭和30〜40年代の都市部近郊を舞台とした子どもマンガには当たり前のように土管のある空き地が登場しているのだ。ここに当時のマンガから土管のある風景をいくつか抜き出してみたが、これらを見ると、土管のある空き地が『ドラえもん』の専売特許ではないことがお分かりいただけるだろう。
あのころのマンガに描かれた土管のある風景その1。赤塚不二夫の『おそ松くん』より。子どもたちの集合場所はいつも土管のある空き地だった。『別冊少年サンデー』昭和41年7月号より。©フジオプロ
こちらも同じ赤塚不二夫の『メチャクチャNo.1』より。お化けと子どもたちの戦争に、土管に隠れて待機していた野良猫軍団が加勢する! 『メチャクチャNo.1』第3集(昭和40年ごろ、東京トップ社刊)より。©フジオプロ
藤子不二雄の『オバケのQ太郎』でも、事件は今日も土管のある空き地から始まるのだった! 『別冊少年サンデー』昭和42年1月号より。©藤子プロ、藤子スタジオ
益子かつみの代表作『怪球X(エックス)あらわる!!』では、荒れ果てた空き地で主人公ボン太郎が冷たい雨に泣き濡れた。『怪球Xあらわる!!』第3集(昭和30年代ごろ、きんらん社刊)より。©益子かつみ
太宰勉(だざいべん)のマンガ『デレ助』より。刑事がヒューム管のことを「ドカン」と呼んでいる。『デレ助』(昭和40年代ごろ、文華書房刊)より。ちなみに太宰勉という名前は、ともに赤塚不二夫のアシスタントだった山内ジョージと高井研一郎の共同ペンネームである。©太宰勉
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それにしてもあのころ、空き地にどうしてこのように土管が置かれていたのか。それにはあのころの時代背景が深く関わっている。
高度経済成長と呼ばれた昭和30〜40年代、東京などの都市部では大規模な建設工事があちこちで進められていた。巨大なビルがにょきにょきと建ち、地下鉄や首都高速が網の目のように日々延伸していった。ダンプカーやトラックが埼玉や千葉、群馬など東京近郊の工場や採石場から続々と建設資材を都心へと運ぶ。そうした資材の仮置き場として、東京近郊の空き地が利用されていたのだ。
筆者の住む東京の東端、葛飾区の柴又でも、ある日学校が終わっていつもの空き地へ行くと、そこについ昨日まではなかった土管や鉄骨、木材、砂利などが山積みになっていることがあった。
これらの資材は仮置されているだけなので、普通は1〜2ヵ月もするとまたトラックでいずこかへ運び去られて行くのだが、中にはどんな事情があったのかそのまま放置され、雑草に埋もれてその場の風景に溶けこんでいくものもあった。
そんな建設資材ももちろん、ぼくらにとっては格好の遊び道具となった。あのころは特に監視の大人がいるわけでもないからいくらでも遊び放題だったのだ。
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こうしてあのころの空き地について思いを馳せるとき、ぼくがいつも思い出す空き地がある。それは文字通り地平線の果まで続いていた夢のように広い空き地の記憶だ。
筆者が小学校2年か3年のことなので昭和40年か41年のことだ。その年の正月、ぼくは父親が仕事仲間の家へ年始の挨拶に行くのについて行った。その家でおせち料理をごちそうになってお年玉をもらい、その家の子と一緒に凧揚げをしようということになった。そして近くの空き地へ向かったのだが、その空き地が、まるで西部劇に出てくるアリゾナの原野のような地平線まで続く赤土の広場だった。
我が家の近くにある空き地は広くてもせいぜい小学校の校庭くらいだったが、この空き地はその百倍くらいありそうだった。さらにその平坦な空き地の一角には、これまた西部劇でよく見るような高さ20メートルほどの切り立った丘がそこだけ高台のようににょきっと突き出していた。
西部劇でよく見るアメリカのアリゾナ州モニュメント・バレーの風景。中央に見える切り立った丘は浸食によって形成されたもので「ビュート」と呼ぶそうだ
あの広大な空き地はいったいどこだったのか。後年この空き地の事が気になり探そうとしたが分からず、父もすでに他界しているのでずっとあきらめていた。
しかし数年前、不意にあのときの会話に出てきた“あるキーワード”を思い出し、その言葉でネット検索をかけてみたところ、なんとその場所が判明したのだ。
あの空き地は東京都多摩市の聖ヶ丘(ひじりがおか)という場所だった。昭和30年代から50年代にかけて大規模開発された多摩ニュータウンの一角である。あの広大な赤土の空き地は、造成途中の多摩ニュータウンの一部だったのである。
そして空き地の場所がここだと特定できたキーワード、それは父の仕事仲間のおじさんが、空き地の一角にあるあの切り立った高台を“アパッチ砦”と呼んでいたことだった。
この空き地を最初に見たとき、ぼくがすぐに西部劇の風景みたいだと思ったのは筆者が子どもだったからというわけではなく、地元の人もみな同じように思っていたわけだ。
西部劇映画『アパッチ砦』公開当時の劇場パンフレット。ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の王道西部劇。1948年の製作で日本では1953年(昭和28年)に公開された。アリゾナの大平原を舞台に騎兵隊vsアパッチ族の壮絶な騎馬戦が展開する
パルテノン多摩から刊行された図録に、昭和43年の聖ケ丘の空き地の写真が掲載されていた。左上の写真の中央奥に見えるのがアパッチ砦である。『パルテノン多摩収蔵写真資料集 多摩ニュータウンの移り変わり −定点撮影プロジェクトの成果から−』(平成29年、公益財団法人多摩市文化振興財団刊)より
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ではこのアパッチ砦のような奇妙な台地がどうしてできたのか。当時の国土交通省の航空写真を時系列を追って見ていくとよく分かる。もともとこの地域一帯は起伏に富んだ丘陵地帯であり、後にアパッチ砦となる場所は周りよりも少し高いだけのただの小山だった。そしてその小山のてっぺんに2本の高圧線鉄塔が立てられた。
やがて造成が進み、小山の周りの斜面が削られてどんどんと平地になっていった。しかし高圧線鉄塔の立つ小山だけは削られずにそのまま残され孤立した高台となったのである。
多摩市聖ヶ丘周辺の航空写真を時系列順に並べてみた。上から昭和36年、昭和43年、昭和49年、昭和54年。矢印の先がアパッチ砦だ。昭和30年代から40年代にかけて周りの土地の平地化が進行する中、アパッチ砦だけが孤立していく様子がよく分かる。しかし昭和54年にはそのアパッチ砦もついに整地されてしまった。4点とも国土地理院の画像を引用(※矢印は筆者が追加)
ネットで調べて驚いたのは、何とこの場所が円谷プロ製作の特撮テレビドラマ『ウルトラQ』第15話「カネゴンの繭」のロケ地にも使われていたことだ。放送は昭和41年4月10日なので、筆者が凧揚げをしたのとほぼ同じ時期にロケが行われていたことになる。
当時『ウルトラQ』は毎週見ており「カネゴンの繭」はとりわけ好きなエピソードだったのに、まさかそのロケ地があの凧揚げの場所とは思いも寄らなかった。
そのつもりで見ると「カネゴンの繭」には確かにあのアパッチ砦もしっかりと映っていた。またぼくの記憶にはなかったが、ロケ当時は空き地の一角に土管が山積みされていたようで、そこも物語の舞台として使われていた。
『ウルトラQ』放送当時のサントラレコード。カネゴンはお金の好きな金田金男少年が、友人のお金をガメたことで変身してしまった怪獣である。昭和40年代のアパッチ砦や世田谷、下北沢界隈のロケ風景が懐かしい
今回本稿を書くにあたり、そのアパッチ砦周辺を数十年ぶりに訪ねてみた。昔の地図と現在の地図を重ね合わせてアパッチ砦のあった場所も特定できた。
しかし当然のことながら、そこにあの赤土の空き地はなく、子どもたちの遊び声が聞こえてくることもなかった。
かつてアパッチ砦のあった聖ヶ丘界隈を数十年ぶりに訪れてみた。正面の鉄塔の立っている高台がかつてアパッチ砦のあったあたり
あの西部劇の風景のような空き地の面影が少しでも残っていないかと捜し回ってみたのだが、どこまで歩いても団地と住宅街が広がっているだけだった。画像は2点とも令和2年12月撮影
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【著者プロフィール】
黒沢 哲哉(くろさわ てつや)
1957年東京・葛飾柴又生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。学生時代よりライター業を開始。卒業後勁文社に入社し『全怪獣怪人大百科』などの編集に携わる。1984年にフリーランスとなり、現在は主に昭和のサブカルチャーやマンガ研究、マンガ原作の分野で活動する。著書に『ぼくらの60〜70年代宝箱』、『ぼくらの60〜70年代熱中記』、『よみがえるケイブンシャの大百科』(全て いそっぷ社)、『全国版 あの日のエロ自販機探訪記』(双葉社)などがある。
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