第9回 血の通った人物を書くには「ちゃんと生きる」
以前に脚本学校で講師めいたことをしていたと書きましたが、生徒さんの提出してくるシナリオで多いパターンがありまして、「これ、どこかで見たことあるなあ……」というものです。既視感のある物語が悪いとは僕はまったく思いませんし、僕自身既視感のあるものばかり作っていると思います。ですが、生徒さんの提出してくる既視感のある脚本は、どうしても「どこかで見たことあるなあ」という感想で止まってしまうのもが多いです。少し細かく言いますと、「既視感のある物語を既視感のある場面やセリフ、登場人物で作っている」という感じでしょうか。
誰も見たことがないような物語を提示するのはなかなかに難しいですし、才能が大きくものを言ってしまう部分だと思いますので、どこかで見たような物語になってしまうのは仕方がないとしても、場面やセリフが生き生きとしていると、とても面白く読むことができます。場面やセリフが生き生きとしているというのはイコール登場人物が生き生きとしているということです。シナリオ学校に通っている方の中には、講師の方から「登場人物に血が通っていない」などと言われたことがある方もいらっしゃるかと思いますが、登場人物にしっかり血が通っていれば、物語がどこかで見たようなものでも観客や視聴者の心に届くことができると思います。
自作を例に出すのは恥ずかしいですが、僕が脚本を書いた『百円の恋』というボクシング映画は多くの人が『ロッキー』のようだと言いました。僕自身もそれは否定しません。うだつの上がらない人間が最後の闘いで一花咲かせるというのはボクシング映画ではよくあるパターンです。ですが、そのよくあるパターンでも人の心を打つものとそうでないものとがあり、その違いはやはり登場人物に血が通っているかいないかだと思います。通っていれば観客の心を打つのだと思います。似たようなプロットなのに観客や視聴者に届かないのは、「こういった物語にはこういった人物を出しておけばいい」という発想で作るからであり、そんな作品は本当にたくさんありますし、僕自身も苦し紛れにそういったものを書いて大きな悔いを残したことが何度もあります。こんなことを書くと仕事を失いそうですが、それをしたことがないという脚本家や制作者は少ないでしょう。それは視聴者の方や観客の方もわかっていると思います。そういうドラマや映画は見れば一目瞭然ですので。
では「血の通った登場人物」というものはどうしたら書けるのでしょうか。かつて新藤兼人さんが「誰でも一生に一本は傑作の脚本が書ける。それは自分のことを書けばいい」というようなことを(正確ではありませんが)おっしゃいましたが、自分のこと、自分の周囲のことを書けばやはり知っているだけに、生き生きとした、血の通った人間たちがうごめいている話を書ける確率は高くなりそうな気がします。ですが僕はこの言葉には少し懐疑的です。自分のことや身の周りのことを書いても全然面白くない脚本を多く見てきました。それはプロの方が書いたものでもです。自分のことを面白く書くというのは、自分のことを客観的に見つめることができているということですが、これが意外に難しいようで、主人公である自分自身以外のことはよく書けているのに、肝心かなめの主人公が面白くなかったり薄かったりすることが多いのです。自分にとって損にならないようなところは書くのですが、本当にみっともない部分、醜悪な部分には目をつむりがちになってしまいます。そういう部分を持っていない人というのは少ないでしょう。人は他者のことは厳しく観察できても、自分自身にはとても甘くなる傾向があるのだと思います。
自分を主人公にするしないは別にして、では、どうしたら血の通った登場人物が書けるようになるのでしょうか? 僕なりの答えは漠然としたもので本当に申し訳ないのですが、「まずは自分の人生をちゃんと生きる」ということ以外に今のところ見つかっていません。「ちゃんと生きる」というのは、何かに向けて必死に努力するとか、人の役に立つような良い行いをするということではなく、いえ、もちろんそういった行動も素晴らしいことだと思いますが、例えばそういった努力や善行をしない、できないという人もいるでしょう。そういう、できない、しない自分をしっかりと自覚しながら生きるというのが「ちゃんと生きる」ということかと思います。俺、なんでしないんだろう。できないんだろう。今、私は良いことをしていないよなと、ちゃんと意識して生きるというイメージです。良いことをしているときにも、私、なんで良いことしているんだろうと意識する生き方です。落ちているゴミがあってそれをスルーするのか、拾って捨てるのか、どちらの行動にせよ、そのときの自分の気持ちを覚えておくというのが「ちゃんと生きる」ということかと思います。
この「ちゃんと生きる」が無意識的にでも実践できている人というのは、細かいことを本当によく覚えています。周囲にいませんか? 小中高時代など昔の小さなエピソードを本当によく覚えている人が。細かいことをよく覚えている人というのは、そのときの自分の気持ちもよく覚えています。こういった人は自分のそのときの記憶から、エピソードや気持ち、発言を掘り起こしてきて脚本を書く傾向にあるので、物語自体は既視感があっても、場面や人物、セリフがリアルでオリジナリティーがあります。だから人に届くのだと思います。逆に細かいことをあまり覚えていない人は、ドラマや映画によくあるパターンの場面やセリフを書いてしまう傾向があるように見受けます。
実際に自分に起きた出来事でなくてもいいのです。あの映画のこの場面とか、あのドラマのこのセリフといったように映画やドラマの細部をやたらと覚えている人もいますが、そんないわゆるザッツ名場面とか名ゼリフのたぐいでなくとも、「細かすぎて伝わらないモノマネ」的な、他の人にとってはどうでもいい場面やセリフだったりして、それをストックとして心に多く持っている人は書き手として強いのではないかと思います。そういう人は、そんな自分だけのお気に入り場面やセリフをここぞというときに脚本にぶち込んできたりするので、その場面が妙にオリジナリティーのあるものになったりするのです。
例えになるかどうかわかりませんが、僕が脚本を書いている現在放送中の『ブギウギ』というドラマで、スズ子という名の主人公が最愛の人に手紙を書く際、必ず最後に「あなたのスズ子」と付け添えます。この言葉は週タイトルになったくらいですが、僕は週タイトルを決めることに関知していませんから、タイトルをつけるスタッフの方々にはそれなりにインパクトのある言葉だったのだと思います。この「あなたのスズ子」は『魔太郎がくる!!』というマンガからいただきました。主人公の魔太郎がいじめっ子に復讐する際、そのいじめっ子たちに女の子の名前で手紙を出して呼び出すのですが、手紙の最後に「あなたの〇〇(名前)」と書いていて、それがとても印象的だったのです。しょぼい例えですみませんが(しょぼいのはもちろん藤子不二雄A先生ではなく僕です。言うまでもないですが)、こういう偏愛的な引き出しが多ければ多いほどいいと思います。どこかで使ってやろうという楽しみもあります。強烈に好きな場面や好きなセリフに出会うと、その場面だけ何度も見たり読んだりしてしまいますから、限りなく実体験に近い疑似体験にもなると思います。いつの間にか自分の血肉になっているのです。
つまり細かいことをよく覚えている人というのは、無意識的かもしれませんが、何事をも自覚しながら生きている人だと思うのです。この「自覚」が「自分の客観視」にもつながっている気がします。のんべんだらりと生きていると、よくあるドラマや映画からの借り物のセリフ、借り物の場面ばかり書いてしまうダメな脚本家になってしまいます。これは脚本家だけでなく俳優さんにも言えることかと思います。例えば、飢えているときに食事を出してもらった人物がものすごい勢いでかき込むシーンなど、一度は誰でも何かのドラマや映画で見たことがあると思いますが、ちゃんと生きている人は、自身の体験や強い疑似体験から引っ張り出してきて、そんな場面での演技も、アレルギーのある食べ物でも食べてしまうとか、オリジナリティーのあるものにしてくれそうです。すみません、よくわからない例えですね。良い例が浮かばずで申し訳ないですが、そういえば以前僕が脚本を担当した『拾われた男』というドラマで、「俳優の修行なんてちゃんと生きるくらいしかねえんだよ」というセリフを書きました。僕も何度目の宣言になるのか数えきれませんが、「ちゃんと生きる」を実践してみようと思います。明日から。
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