病的な主観の形成と客観視の喪失

 一つの事象性から、主観の向きは2通りできる。
2通りの主観は、中身は同じであるが視点が相方向になっている。全体→部分、部分→全体のどちらかの方向に主観は向いている。
自分の内容なのか、自分の枠組み(場所)なのか、つまり内から外向きなのか、外から内向きなのか、主観の向きは場面ごとに臨機応変にスイッチされる。その一部分だけで外向きか内向きかが切り替わりながら、主観の全体の構造は守られている。
「自分」は“どちらからみているか”を「把握」しており、自らの意思で“どちらからみるか”を選ぶことができる。これは「全体」が成立しているときに可能となる。

 ある事象性において主観の形成が障害されると、形成されるはずの2通りの主観は、「今」の「場」における「自分」の「全体」としての「集合」には集合できなくなる。
その事象性から病的な主観が形成されて「場」に「出現」したとしても、「自分」の「内容」と「自分」の「枠組み(場所)」という、「自分」を中心として同心円状に2層に重なる構造の中には組み入れられなくなるだろう。
結果として部分と全体という構造の連続性は失われて、全体から部分をみる「客観視」は不可能となる。

主観の形成 ⇆ 2層の構造への集合 の関係が障害を受けると、
→その部分においては2層の重なりが形成されず、病的な主観が形成され、
→「全体」の「部分」ではなく、独立した病的な「場」となってしまう。

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