自伝・物語は自己成長の過程を描くもの

ニューヨークタイムズ・ベストセラー作家を一生かかっても目指し、自伝を出版すると決めてから、海外の編集者が自伝や小説を書くコツを英語で説明するYouTubeチャンネルを、貪るように観てる。

KNLiterature, Ellen Brock, Abbie Emmons などなど。

内容に共通点があるとすると、ストーリーの起承転結は人生における個人の成長過程そのものだということ。当たり前なことかもしれない。でも受動的に読書や映画鑑賞している時よりも、改めて物語を自分で構成しようと思考を凝らすと、より鮮明になった。

主人公が、日常の感覚では生き続けられないほど大きな問題が起き、はじめは変化を回避しようとするが、変化しないと自分の大切なものがますます危うくなると気付き、勇気を振り絞り、失敗から得た知恵を駆使して、時には命をかけて問題に立ち向かう。結果は失敗や成功や両方であったりする。

私が自伝を書き残したい(書く他ない)と思うのも、ある程度ストーリーが完成するほどの人生経験を積んできたからだと思う。

虐待を愛情表現だと刷り込んできた毒親を問いただすという、死より怖かったことを経験するまでも、苦難の連続だった。虐待を受けていた当初は自分の苦しみを認めることも困難だったが、認めないことの方が自分を苦しめていることを、自他を傷つけながら幾度も痛感したから、挑むことができた。

事実として受け止めて両親に突きつけた後も、辛い経験は尽きないが、虐待がなかったこととして生きていた時より、確実に変わったことがある。

それは、私が初めて、自分の人生を歩んでいる感覚になったことだ。それまでは魂の抜け殻や操り人形のようで、記憶にもモヤがかかっていたことの方が多かったが、今は以前より地に足が着いている感覚がある。頭の中の声が消えて、心に耳を傾ける余裕が生まれた。

私が行動を変えたら、親の行動も変わった。彼らは自分たちが犯し続けてきた児童虐待を、動揺しながら「やってないとは言い切れない」という二重否定(ジャニーズ事務所かよ)のまま、謝罪もなく私に一切連絡をよこさなくなった。加害者が自分達でなく、赤の他人だったのなら、過剰に反応するのは目に見えている。自分ごとになった途端、無関心になれるのは、潜在意識で罪の意識が働いているからだろう。

「本を読んだ方がいい」と一般的によく勧められる理由は、読者が自分にしかわかり得ない生き方についてどう選択するかを間接的に学び、自分の人生に応用することができるようになるからだろう。

生きていると色んな厄介なことに巻き込まれる。敵は自分の味方の振りをしてくることもある。自分を苦しめるのは、自分をこの世に生み落とした親だったりする。あからさまな暴力を振るう親だけでなく、愛情という名を振り翳して確実に支配してくる親もいる。自分の存在を否定させるような状況の中でも、自分の感覚や感情を頼りに、自分が納得できる選択をしていくしかない。

現実は小説より奇なり。だから私はフィクションは苦手だった。だって所詮、作り話でしょ、エンタメでしょって見下していた。だからといって伝記などを読でいたわけではないが、映像ならドキュメンタリーの方がリアリティがあって好んだ。

でも、ドキュメンタリーもフィクションも、伝えていることは一つ。どんな逆境にも立ち向かうのが、主人公であり、現実世界の主人公は私たち一人ひとりであるということ。

ただ、悲しいのは、私みたいに幼児の時から虐待を受けていて、自覚と治療が遅れてしまうと、普通に考えればできると思うようなことも困難になる。読書とか映画鑑賞でさえ、怖い。なぜなら、物語の主人公がなんと言えど、まだ小さくて大人を頼りにしないと生きていけない状態で、保護者に立ち向かうなんて至難の業だから。自分が生きるべき道があると言われたところで、それこそファンタジーやフィクションにしか聞こえない。そんなの無理となって諦めてしまう。膨大な可能性を秘めてる子どもの人生・時間を大人の勝手な都合で潰す。なんて罪深いことだろう。

だから、子どもにだけは手を出さないで欲しい。自分の子どもだからと言って、所有物ではない。赤ちゃんの時から一人前の感情と感覚を持ち合わせている。だから、性教育をまだ受けていない幼児でも、性器を侵入された記憶が大人になっても消えなくてトラウマになる。記憶を忘れることでしか自分を守れなかった人でも、記憶が蘇ってくる場合もある。記憶を完全に忘れたつもりでも体と潜在意識は覚えているから、自覚がないまま自殺したり殺される人もいるだろう。他人の一生を台無しにする罪に本来、時効なんてない。

大人は謙虚になれ。
もっと子どもの気持ちに耳を傾けろ。

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