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香港大規模デモ直前② 〜 香港の歴史 〜

2019. 6. 16 9:00 a.m   ホテルでの朝食を早めに済ませ、九龍半島のフェリー乗り場から1人スターフェリーに乗り香港島へ。九龍半島と香港島への行き来は他にも地下鉄、バス、タクシーなどで移動できますが今回はフェリーで。香港への旅行は今回初めてだったので、もちろんこのフェリーに乗るのも初めてでしたが、その乗船料の安さに驚きました。

乗船料は片道大人 平日だと HK$2.7(香港ドル)、土日祝日でもHK$3.7でした。現在のレートはHK$1(香港ドル)約14円。なので片道約50円程度で乗れてしまいます。乗船時間でいうと約10分程度。海から見える景色はまた格別で、高層ビルが立ち並ぶ香港を象徴しているようでした。因みに1966年にはこのスターフェリーの運賃値上げに抗議するデモが行われており、香港の人たちは以前から抗議の仕方を知っていたようです。


そもそも香港の事を私たちはどのくらい知っているのでしょう。
正直私は今回香港に行く事になるまでは、ほとんどよく知りませんでした。
なので、訪れる国の簡単な歴史くらいは知っておこうと調べました。
ご存知の方も多いと思いますが、下記に簡単に纏めます。

【 香港の基本情報 】

正式名称:中華人民共和国 香港特別行政区
  (中国語 : 中華人民共和國 香港特別行政區)

面積: 1,106平方キロメートル(東京都の約半分)
人口: 約734万人(2016)
言語: 広東語,英語,中国語(マンダリン)ほか
宗教: 仏教,道教,プロテスタント,カトリック,イスラム教,ヒンドゥー教,シーク教,ユダヤ教

(参照:外務省HP 香港基礎データ



【 香港の歴史 】

ー 名前の由来 ー  
香る港と書く「香港」。何故香る港なのか?
これは諸説あるそうですが一番有力な説は「香木」から来たというもの。
湾に面する漁村が文字の通り良い香りのする木材(香木)の集積場所にもなっており、そこで香木の積み下ろしがされていて、その村や周辺が香る港「香港」と呼ばれていたのが全体としても呼ばれるようになったとか。

ー 植民地の歴史 ー
1840年にアヘンの貿易を巡って中国(清)とイギリスで起きたアヘン戦争。1842年にアヘン戦争を終結させる為に締結された南京条約により、香港島はイギリスに割譲された。また1860年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)を終結させる為に締結された北京条約により九龍半島の南部も割譲された。
更に1898年の「展拓香港界址専条」の締結により、香港島、九龍半島南部以外の土地(周辺の島々を含む)をイギリスが99年間租借して「新界」と呼ぶようになった。


ー 中英の共同声明 ー
1984年12月19日、中国とイギリスにより中英連合声明が発表され、香港は1997年7月1日イギリスから中国へ返還されて、中華人民共和国特別行政区となることが決まった。
中英連合声明の主な内容は、「イギリスは1997年7月1日に香港を中華人民共和国に返還し、返還後の香港は【一国二制度】を維持すること、また50年間は資本主義体制を保証すること、最高責任者である香港特別行政区長官は選挙または協議によって選出され,中央人民政府が任命すること」など。


そして租借から99年経った1997年に新界の租借期限が切れ、中国とイギリスの共同声明(中英連合声明)により「一国二制度」を維持することを条件に、香港、九龍半島南部の返還も行われることになった。

「一国二制度 」とは …   一つの国の中に二つの制度がある事。

香港は中国(社会主義)の一部として返還後50年間は資本主義保たれることが約束されている。


また返還後50年間の一国二制度の合意により、「香港特別行政区基本法」が作られ、返還と同時に施行されました。その中に「香港住民は法の下に平等であり、言論・報道・出版の自由、結社・集会・デモの自由、非合法に逮捕、拘留、監禁されないなどの人身の自由、移動の自由、信教の自由などを持つ」などが明記されています。

香港基本法
1997年7月1日に香港が英国から中国に返還されて以来「中華人民共和国香港特別行政区基本法」は 香港特別行政区に「高度な自治」を認め(第2条),社会主義制度と政策を実行せず,従来の資本主義制度と生活方式を維持し,50年間変えない(第5条)等と定めている。
                   (外務省 H.P 香港基礎データ 参照)


ー 香港の大規模デモ ー

一国二制度により自由が保たれている香港ですが、行政長官選挙の選挙に 関しては市民の参加が厳しく制限されており、人口700万人を超える中で2007年までは香港の各種業界の中の主に親中派の約20万人の中から選ばれた800人が選挙委員会になり、そこから行政長官が選ばれていました。


香港基本法の第3節 立法機関  第68条の中で「最終的には全議員が普通選挙によって選出されるというのを目標に達する」と書かれています。
また 付属文書の中では2007年以降の行政長官の選出方法、立法会の選出方法、法案及び議案の表決手続きついて規定を改正する必要がある場合は、立法会の全議員の3分の2の多数で可決し、行政長官の同意を得、全国人民大行大会常務委員会に報告し、承認を求めなければならない。と書かれています。


そこで2003年に「23条に反対、政治を民に還せ」とスローガンを掲げた民主派の人たちがデモを起こして「2007年の行政長官選挙は普通選挙にせよ」と求めました。しかし、2004年に全人代は、「2007年以降に行政長官と立法会の選挙方法を変更できるが、それには(中国による)所定の手続きが必要である。また2007年の行政長官選挙は普通選挙は行わない」という解釈が発表され、2007年は普通選挙は行われず従来通りの選挙になりました。
しかし、2007年の全人代で2017年から普通選挙を認める決定がなされました。

ところが、人民代常務委員会は2014年8月31日、2017年3月の香港行政長官選から行政長官候補者を2〜3人に絞るよう決定しました。
これは親中派の多い1200人「指名委員会」の過半数の推薦がなければ、候補者にはなれないとした事実上民主派の候補者を排除する制度を一方的に決めたのです。

そしてこれらに基づいて2014年の「雨傘革命」が起こりました。

この決定により香港の市民たちは民主主義が実現できない「一国二制度」が守られていないことに不満を募らせて学生など若者達を中心に、中国の建国記念日にあたる10月1日に向けて香港の中心にあるセントラル(中環)地区での大規模なデモとなりました。これが雨傘革命です。

あれから5年、それを上回る大規模デモが起きました。

                            ③につづく

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