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Q. なぜ、走る?

先日初めてのフルマラソンを終え、周囲に「いや~実はこの前フルマラソン走ってきて…」という話をすることが増えた(飲み会、バイト先の上司、美容室のお兄さんetc.)。その際、「なんでフルマラソン走ったの?」あるいは「なんで走ってるの?」といったようなことをほぼ100%の確率で聞かれる。そして、困る。なんて答えればよいか分からないからである。「健康維持のために走ってます!」と言えば聞こえはいいが、正直なところランニングなしでも健康は維持できるし、上半身の筋トレをした方が見た目にもかっこいい。「走るのが楽しいから走ってます!」と言うのが一番近いのだが、話し相手には大概ドMだと思われ、ドン引かれるのが関の山である。かのジョージ・マロリーは「なぜ山に登るのか」と問われれば「そこに山があるから」と述べたが、私は「そこに道があるから」とは答えない。道路は車で走ったほうが速いし爽快だと思う。

自分の中での「走る意味」の中で、人に理解されやすいと思って話すものをいくつか挙げる。
①「景色が綺麗だから」
…旅先で走ったり(直近は諏訪湖)、できるだけ景色のいい場所を選んで走ったり(普段のランニングコースは東京スカイツリー目前の隅田川沿い)しているので間違いではない。
②「精神的に強くなりたいから」
…実際、普段のランニングはいつも一人で行っているためかなりの精神修行にはなる。
③「負けず嫌いだから」
…フルマラソン限定。箱根駅伝の選手はあまりフルマラソンの大会に出ないので勝手に勝った気になっている。また、身の回りにフルマラソンを走る人はそうそういないので、唯一性があるように感じられる。

いずれの理由も、いまいちピンとこない。全て本当のことを言っているのだが、中心にある本質に対する従属的な理由であるように感じてしまう。

では、私が走ることの本質とはなんだろうか。

憧れと絶望の先にあるもの

他の記事を読んでもらえばわかる通り、私は陸上競技、駅伝のファン(オタクと言っても良い)である。ファン歴は長いわけではないが、かなりの熱量をもって陸上競技を鑑賞している。あるスポーツのファンが自らもそのスポーツに取り組もうとするのはある種自然の「流れ」であるように思うが、その流れを方向付けるものとはいったい何か。思うに、それは対象への憧れであり、そこに近づこうとする自己実現の欲求である。それは小さな子どもがメッシに憧れてサッカーの足技を練習することであり、男子大学生がRADWIMPSに憧れてバンドを組むことであり、世の女性が石原さとみに憧れてメイクを真似てみることでもある。憧れはいつも人間に「何か」になろうとする指向性を与え、人間を「何か」に駆り立てるものである。

同時に私たちは心のどこかで、「何か」にはなれないことを知っている。稀有な才能を持つ一握りの人間に選ばれない限り、その領域で創造人たることは難しい。小さな子どもならともかく、歳を取るたびに私たちは自分が「選ばれなかった側の人間である」という苦い事実を咀嚼することになる。まして19歳になってしまってからランニングを始めた私は大迫傑やモハメド・ファラーのような速いランナーにはなれないし、『風が強く吹いている』の登場人物のように、奇跡のような才能開花により箱根駅伝に出場できるわけでもないと知っている。陸上選手の走りを見るたび、私は自分と憧れの対象との差に絶望することになる。「走るだけ」という行為の単純さが猶更その絶望を際立たせるのである。

それでも走るのはなぜか。考えうる答えは、「繋がっていたいから」。もう少し詳細に言えば、「練習を積み、速くなろうとする」行為を通じて、私と陸上のトップ選手は同じ方向を向くことができる。私と彼らは、スピードの差から言えば見えている世界は全く別であろう。一方で、「速くなろうとする指向性」という一本の道の上に立っている。見ている世界が違えど、私たちは一つの指向性の上で、「走る」という行為を通じて、繋がりを持っていると言えるのだ。それは「第一線で戦えないから」という妥協ではなく、才能や若さという絶望を乗り越えてその世界との繋がりを保つための、まさに希望の営みである。

そして、実際に走ってみることによって、憧れの対象であるトップ選手のことが少しずつ分かるようにもなる。一流アーティストのような素晴らしい曲が書けなくとも、ピアニストのように指が動かなくとも、作曲や演奏に触れた経験は音楽作品の鑑賞をより深い、詳細なものにする。プロサッカー選手になれなくとも、練習を積んできた経験はプロ選手の細かいタッチや試合中の思考にまで鑑賞眼を研ぎ澄ませるだろう。それと同様に、トレーニングを積み、速くなろうとする営みは、その道のトップ選手になれなくても、「陸上競技ファン」である限りは私を楽しませるに不足ではないのである。

憧れの対象と同じほうを向いて、実際に取り組むこと。
それが「趣味」であり、私にとっての「走ること」である。


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