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夏の夜の終わりに ⑭

 受付は非常に簡単だった。タッチパネルに表示された部屋の中で、希望の部屋をタップする。ただそれだけのことだ。受付スタッフはその場にいなかった。個人的な営みに対する配慮なのだろう。しかし、何の説明もないので、最初は戸惑ってしまってもおかしくはない。実際に僕は何をどう操作していいのか分からなかった。けれど彼女は自動ドアを通るや否やタッチパネルに向かい、簡単に操作をして部屋を決めた。その姿から彼女の私生活が少し透けて見えそうで、僕は心の奥底にある目を瞑った。結局のところ、僕らは互いのことを何も知らないのだ。名前も、住む場所も、通っている学校も、好きなことも、何も知らない。       
 「七階だって」
 僕らはエレベーターに乗って七階に向かった。エレベーターはとても静かに作動していた。
 七階に降りると、赤いマットの引かれた廊下が真っすぐと伸びていた。何の物音も聞こえない、とても静かな廊下だった。僕らはいくつかの扉を越えた。僕はその扉の中で行われていることを自然と想像してしまう。脳裏に浮かんだその光景は、この静寂に包まれた廊下とは似ても似つかないものだった。
 「ここだね」彼女が扉を開けると、正面には大きなベッドが見えた。僕のベッドの何倍もあるベッドだった。
 「はあ、疲れた」
 彼女はさっさと部屋に入り、そのままベッドに倒れこんだ。
「凄くフカフカなベッドだよ。君もおいでよ」
 彼女は僕を見ながら手招きをしている。しかし僕はその場でたじろぎ「いや、いいよ」と虚勢を張ってしまう。
 「なに、変な想像でもしているの?本当に、男子高校生は怖いなあ」
 彼女はふざけたように自身を抱いて、左右に体を振った。寝転んで揺れる彼女の姿は芋虫のように見えた。
 「そんなんじゃないよ」僕は何度か首を振り、ベッドの前にあったレザーソファに腰を掛ける。ソファの前は透明なガラステーブル、その奥には大きなテレビがあった。手に持っていたマルゲリータをテーブルの上に置く。デリバリーピザ屋で受け取った時には湯気が出ていたが、もうすっかり湯気は消えてしまっていた。
 「ピザ、食べる?」
 彼女に顔を向けると、彼女はベッドの上で大の字になりゆっくりと腹部を上下させていた。彼女の細い呼吸音が聞こえる。もう時間もかなり遅い。もしかしたら眠ってしまったのかと思い彼女を覗き込むと、真っすぐと天井に視線を向けているだけだった。何か彼女の瞳を魅了するものがあるのかと僕も天井に目を向ける。しかし、天井には丸い照明があるだけだった。それ以外はシミ一つない白塗りの天井が広がるだけだ。「何を見ているの?」と喉元まで上がってきたが、僕はすぐに飲み込んだ。彼女の瞳が潤んでいたからだ。僕はそんな彼女の瞳を見つめた。コップいっぱいに注がれた水のように、彼女の瞳の表面張力は今にも崩れそうだった。彼女は涙を飲み込むように、一度瞳を閉じた。そして、小さく微笑みながら僕に顔を向けた。
 「ふふ、それは私に見とれていたってことでいいのかな?」
 「そうかもしれないね」
 「全く、君はどうもはっきりしないのね」
 彼女は体を起こして立ち上がった。そしてごく自然にTシャツを脱ぎ捨てた。そして彼女は黒いキャミソール姿になった。彼女の乳房の形がいいことは、キャミソール越しでもよく分かった。
 「急に脱がれても困るんだけど」
 彼女は振り向き、子どものように無邪気な笑顔を見せた。
 「それは変な想像をしてしまうからってこと?」
 「そんなんじゃないさ。ただ一般的に、女性が目の前で急に脱ぎ始めて困惑しない男性はいないってことさ」
 「嘘ばっかり。余計なことを考えちゃったんじゃないの?今の君はそんな顔をしているわ」
 彼女に言われて僕は咄嗟に顔に触れる。特に何もない、いつも通りの感触がした。そんな僕を見て彼女はまた笑った。「やっぱりそうじゃない」僕は何も反論できなかった。正直に言うと、余計な想像を全くしなかったかというとそうではない。月が沈むと太陽が出るように、ごく自然と僕は余計な想像をしてしまっていた。
 「先にお風呂に入るね。ピザを食べるのはそれから。急に覗いたりしたら承知しないわよ」
 釘を打つように彼女は言う。「大丈夫だよ」と僕は答える。例え僕が何を想像して何を望んだとしても、実際に行動する勇気など持ち合わせていないのだ。
 彼女は浴室に入るとすぐにシャワーの水音がした。僕はレザーソファにもたれかかり、シャワーを浴びる彼女を想像した。意図して想像したわけではない。それはごく自然に、僕の脳裏に浮かび上がった。彼女の美しく白い裸体は採れたての野菜のように瑞々しく水滴を弾き、シャンプーで泡だった長い黒髪からは柔らかい果実の香りがした。そして彼女は頭からシャワーを浴び、付着した泡を流し落とす。水分を含み背中に付いた黒髪はまるで海苔のようにも思えた。その一連の動作の中で、彼女は何故か泣いていた。脱衣をして、シャワーを浴びて、髪を洗って、またシャワーを浴びる。その最中彼女はずっと泣いていた。理由を想像してみても、僕には何一つ見当もつかない。ただ唯一想像出来るとしたら、彼女は汗ではなく涙を流すためにシャワーを浴びたのではないかということだった。どうしてそう思うのかと聞かれても僕には何も答えられない。それは僕の想像上の話であり、どうしようもない空想なのだから。けれど、どうしてもそう思ってしまうのは彼女の潤んだ瞳を見たからだった。僕は瞳を閉じて、必死に彼女の涙の理由を捜す。僕は脳みその細部まで神経を走らせ、出会ってから今までの過程を全て振り返る。どうして自分がここまでしているのかよく分からなかった。けれどどうしても、彼女に泣いて欲しくはなかった。そう思う理由も、僕にはよく分からなかった。
 彼女と出会ってこれまでの日々を何周も振り返っていると「寝ちゃったの?」と声がした。僕はゆっくりと目を開き、「寝てないよ」と答えた。目の前に立つ彼女はバスローブに包まれていた。少しだけ胸元が開いていて、僕の視線は自然とそちらに行ってしまう。「本当に君はどうしようもないのね」と彼女は胸元を閉じる。そして小さく微笑んだ。
 目の前に立つ彼女の姿は、バスローブに包まれている点以外普段と何一つ変わらなかった。もちろん泣いてもいないし、不自然に表情を作っているわけでもなかった。いつも通りの彼女がそこには立っていた。しかしどうしてだろう。僕の脳裏には今も彼女の泣き顔がこびり付いて消えやしない。現実の彼女を見つめても、その泣き顔は消えやしない。気持ちの悪くなった僕は彼女に訊いた。
 「ねえ、どうして君は泣いていたの?」
 彼女は目を丸めて僕を見る。その表情は驚いたようにも思えたし、突拍子もない質問に困惑しているようにも見えた。どちらにせよ彼女は首を左右に振り「泣いてなんかないわ」と答えた。
 「そうだよね」と僕が言うと、今度は不機嫌そうに眉間を下げて、「どういうこと?」と訊いた。
 「特になんでもないよ」
 なんでもないことは無かった。僕はただ、僕自身に対する確認行為をしただけだ。泣いていない彼女を見て「そうだよね」と僕自身に言い聞かせたのだ。
 相変わらず彼女は不機嫌そうにしていたが、僕はするりと彼女の横を抜け、脱衣所に向かった。スムーズに服を脱ぎ、浴室に入ってシャワーを浴びた。何故か薄紫に光る浴室は僕に変な気持ちを植え付けたし、座っている凹字型のシャワー椅子は余計な想像を膨らませた。
だが、僕の身体は反応しなかった。頭の片隅に君の涙が浮かんでいるからだ。
 シャワーを浴び終えると置いてあったバスタオルで体を拭いた。そして用意されていたバスローブに身を包んだ。バスローブを着るのはこれが初めてだった。
 浴室を出ると香ばしい匂いが部屋中に充満していた。
 「シャワー浴びるの早いね。もうすぐ温め終わるから待ってて」
 彼女は電子レンジの前に立ち、ビスマルクが温め終わるのを今か今かと待ちわびていた。どうやらマルゲリータは温め終えているようで、テーブルの上には湯気を放つマルゲリータが置かれていた。
 彼女は電子レンジに表示される数字を読み上げながら、身体を左右に揺らしていた。僕はレザーソファに座りながら、そんな彼女を見ていた。
 「出来た」
 温め終わると彼女は嬉しそうに声を上げて、中に入っていたビスマルクを取り出した。火傷しないかと心配になったが、彼女はティッシュペーパーを何枚も重ねて器用に取り出していた。
 「やっと食べられるね」
 彼女は僕の横に腰掛け、嬉しそうに微笑んだ。僕が返答をする前に手を合わせると、すぐさまビスマルクに手を付けた。
 「とてもお腹が空いていたんだね」
 彼女は頷きながらカットしたビスマルクにかぶりつく。「熱いっ」と声をあげるとすぐさまビスマルクを戻し、手で口腔内を仰ぐ動作をした。
 「温めたばかりだし、気を付けないと火傷をするよ」
 「もう火傷をしたよ」と彼女は舌を見せた。舌の上層は焼けただれたように白くなっていた。
 「とても痛そうだ」
 「とてもね」そう言い彼女はまたビスマルクにかぶりつく。「でも美味しい」
 僕は湯気の出るマルゲリータを手に取り、口に運んだ。口腔内にはとろけたチーズが広がった。それはまるで熱兵器のように口腔内の粘膜を刺激する。熱さで吐き出しそうになるが、絡み合ったトマトとチーズの濃厚な味わいがそれ以上に味蕾を刺激する。僕は苦行を耐えるように咀嚼し、ぼろぼろに焼かれた味蕾でマルゲリータそのものを味わいながらゆっくりと嚥下した。やはり、僕も彼女と同じように舌が白くなった、
 テーブルの上にあったペットボルトのお茶を開けて、口腔内を冷やすようにゆっくりと飲んだ。彼女も同じようにお茶を飲んでいた。
 「お茶も買ってくれていたんだね」
 僕自身でお茶を買った記憶がなかったので、感謝の意を込めて彼女に「ありがとう」と言う。すると彼女は少し考えたように上唇を触れた。そして「あー」と声をあげた。
 「お茶、買ってきたんじゃないよ。そこから出したの。まあ、精算と一緒に代金を落とされるんだけどね」
 彼女が指差した先には小さな冷蔵庫のようなものがあった。彼女はその冷蔵庫に向かうと、「ほら」と冷蔵庫を開けた。そこには区分けされた飲み物が寝転んだ形で入っていた。その下には数字が記載されている。コカ・コーラ一本二百円。お世辞にも安いとは言えない値段だ。寧ろ詐欺に遭っているような気もする。
 「ここにはいろいろなものがあるんだね」
 「他にもあるよ」そう言い、彼女は室内の至る所に足を運ばせた。テレビを付けてカラオケ音源を流してみたり、映画を映してみたり、そして照明を器用に操作し、魅惑的な雰囲気を演出させたりもした。
 「ね、ここでなら一生暮らしていられそうでしょ。シェービングフォームもあるしヘアケア剤もある。保湿美容液もあるしね。ポットもあるからコーヒーはいくらでも作れるし、お金さえあれば食事も出してもらえる。それになにより、外から部屋の中を見ることは出来ない。私たちにしてみたら、天国みたいな場所じゃない?」
 彼女は得意げに話した後、僕を見つめて微笑んだ。触れたら崩れてしまう初冬の雪みたいな脆い笑顔だった。
 「君はここで一生暮らしていたいと思うの?」
 「君が一緒に暮らしてくれるならね」
 彼女またソファに戻り、今度はマルゲリータを摘まんだ。「丁度いい具合に冷めているわ」と彼女は僕を見る。また、バスローブの胸元がはだけていた。しかし見ようとは思わなかった。僕はお茶を手に取り、一気に二百mlほど飲んだ。そして彼女が付けた映画に目を向けた。それはこの部屋の雰囲気によく合うラブロマンス映画だった。ダブル不倫の行く末を描く、僕からするとどうしようもないような映画。映画の中では何度もラブホテルのシーンが映され、視聴者側からするとまるでそこに住んでいるようにも思えた。そして行為が終わると、不倫相手の女性は何度も泣いた。
 「どうやら、ここは君の言うように天国ではないみたいだね」
 僕がテレビ画面に目を向けながら言うと、彼女は「そうね」と空気交じりの声を発した。
 「結局、天国みたいな場所なんてどこにもないのよ。勝手にそこが天国だと思う以外にはね」
 「君にとってここは天国のような場所なのかい?」
 「場合によってはね。さっきも言った通り、君といれば天国にもなるかもしれない」
 「名前も知らない男だって言うのに?」
 「君こそ、一緒にいるのは名前も知らない女よ」
 「名前なんて、ない方がいい時もあるのさ」
 「それは同感だわ。名前なんて、ある種の縛りみたいなものだから。あると息苦しくなるのよ。でも、君といる時は息苦しくないわ」
 「名前がないから?」
 「そうね」
 彼女はくすくすと笑う。僕はそんな彼女の笑い声だけを聞いている。直後、彼女はまたピザを食べた。マルゲリータかビスマルクか、咀嚼音だけでは分からなかった。
 「ねえ、どうして君は泣いていたの?」当たり前のことを訊くように僕は言う。
 「泣いていないわ」当たり前のように彼女は言う。
 「じゃあ聞き方を変えるよ。どうして君はそんなにもここを知り尽くしているんだい?」
 眼前に映るラブロマンス映画では不倫をしている二人が別れるシーンだった。とても悲壮感の漂う雨が画面の中では降っていた。
 「それが、どうかしたの?別にこういうところに来ていてもおかしくない年齢でしょう」
 「ばれたら警察に捕まってしまうよ」
 「君も警察も生真面目なのね」彼女はくすくす笑う。
 「別に冗談で言っているわけではないんだ」僕は彼女に目を向ける。彼女は観念したように微笑み、レザーソファに背中を預けた。そして天井を見つめた。
 「よく来るのよ。お金を稼ぐためにね」
 室内にはラブロマンス映画の魅惑的な音声だけが響いていた。

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