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その人が表れる言葉が好き

スミレの花が咲くこの頃になるといつも思い出すのは、
数学者 岡 潔 のこの言葉。

人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
私は数学の研究をつとめにしている者であって、大学を出てから今日まで三十九年間、それのみにいそしんできた。今後もそうするだろう。数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。
私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。

― 岡 潔 『春宵十話』角川ソフィア文庫 はしがきより

この「はしがき」をずっと読んでいる。
読み切れなくてずっと読んでいる。
読んでいると呼吸がしやすくなってくる。

なんでだろう。

春の野に、群れ咲く一面の草花。
吹き渡る風にそよいでいる。
わたしは一輪のスミレになり、ただ存在する喜びを思い出す。

「はしがき」を読むたびに、そんな心地になる。


人の中心は「情緒」である、「スミレ」のように咲けばよいと、言う人。
こんな言葉を使う人は、どんな人なんだろうと思う。


春宵十話(しゅんしょうじゅうわ)を読んでいくうちに、
この人のこと好きだなと思う。

文庫本の裏表紙の紹介文には、岡潔は “数学者として世界的な難問を解き天才と呼ばれた” 人で、この本は “日本の文化を培ってきたのは自然に根差した「情緒」であり、戦後急速に西欧化が進む中、その伝統と叡智が失われることに鋭い警鐘を鳴らす。本質をみつめる精神の根底を語る代表的名著。” とある。

この字面だけを読むと私にはハードルが高いと思うのだけれど、それに雲の上の人なんだけれど、岡潔の言葉でつづられたこの本は居心地がよい。

この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭を見ていると、白っぽくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだってかまわないと思い直し、ひどくうれしくなったことを覚えている。
 ついでにいうと、土の色のあざやかな記憶はもう一つある。中学一年の時、試験の前に夜おそくまで植物の勉強をやり、翌朝起きたところ、気持ちがさえないでぼんやりとしていた。ところが、寄宿舎の前の花壇が手入れされてきれいになり、土が黒々としてそこに草花がのぞいているのが目に入ると、妙に気持が休まった。日ざしを浴びた土の色には妙に心をひかれてあとに印象が残るようである。

― 岡 潔 『春宵十話』角川ソフィア文庫 p.18

「数学の想い出」という章のこのエピソードを読んで、私はひどくうれしくなった。

アラームが鳴っても起きたくない朝
窓の外の鳥の声々が聞こえてきて、よし起きようって気持ちになったり、
足取り重く会社に向かっているとき
ハナミズキの花が咲いているだけでなんだか慰められたり、
毎年同じ場所に咲くキュウリグサやヒメオドリコソウやオオイヌノフグリにうれしくなったり、
カラスが巣作りのため針金ハンガーをくわえて飛んでいるのをみると元気がでたり、
クスノキの自己剪定(必要に応じて自ら枝を落とす)をみて気持ちを新たにしたり、
掘り返された土に草花がまじっていて、なんというか豊かさ恵みのようなものを感じたりする。


まだ本を読み終えていないけれど、
岡潔の使う「情緒」という言葉は、自然からもたらされているものに、
そのことに自然に響く心、その心の動き、のような意味合いに思う。

✭✭

同じ章に、自身の数学的素養について、中学の頃 “応用問題はあまりうまく解けなかった“ といい、同じような素質が時間を隔ててあらわれる例としてフランス留学中のエピソードが語られている。
自分の研究テーマがその分野のオーソリティである教授と同じだったこと、その結論が教授と真反対だったこと、それが判明したとき “耳まで真っ赤になり、テーブルに顔を伏せたまま上げられなかった“ こと、
その出来事について “私はこの日の情景を、両教授の思いやりにあふれた態度とともに、あざやかに覚えている。”と締めくくっている。

さらりと書かれているけれど、
自身の「スミレ」に気づいた瞬間なのだろう。

その後の章で、”フランスでの数学上の仕事といえば、専攻すべき分野を決めたことだけ” といい、それを選んだ理由は “山にたとえれば、いかにもけわしく登りにくそうだとわかった” からという。
そして、“私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。”と語っている。

✭✭✭

留学の決まった時、フランスを希望したところ、文部省はドイツへ行けといった。
<中略>
だれだれの話を聞くというので留学するのだから、よその国ではだめなのに、文部省はそんなこともわからなかったらしい。これも「人」というものが忘れられている例で、どの人がしゃべったかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない。

― 岡 潔 『春宵十話』角川ソフィア文庫 p.25

ああ、やっぱり好きだな。
その人がその言葉を使うから心に響くんだ。

岡 潔『春宵十話』


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