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高み/低み

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 数ヶ月前、2000年前後に発表されたボリビアのポップのPVを集めたDVD-R(AYNI STUDIOSというレーベルから出ている公式物)が、よく行く古本屋の店先にぱらぱらと並んでいた。
 ボリビアのポップのPV集。その様な、「自分の人生に必要かそうでないのか、その場では一切の判断が付かない」物を、こう、バッと握り、そして迷わず買う瞬発力、決断力、勇気。克己心。それらを私は、「別世界からの呼び声が聞こえる物質に対してはとにかく無駄金を使う、買った理由は後から考える」という、半ば自殺に近い形の自己鍛錬によって修得した。

 一例↓ 


 著者には悪いが、このような本、このような存在には、「買って良かった!」「買わなくて良かった!」という状況は、有り得ない。有るのはただ「買わなければ良かった…」「ああ、買っておけば良かった…」という、所有者/観測者を責め苛む負の感情だけだ。その意味でこの本は、消費によって満足感を得る事が幸福、資産を着実に運用する者が賢者だと見なされる資本主義内においての虚数の様な存在である。「共産党宣言」冒頭、マルクスは共産主義をヨーロッパを徘徊する亡霊だと表現したが、資本主義という消費社会の歴史の底からもこの様な亡霊は立ち上ってくる。
 そして資本主義を超越する異界への扉は彼等を媒介とする以外に開く術は無い。

 私はこの本を買う前から既に読みたくなかった。しかし、ある直感に導かれて購入し、そして確かな収穫はあった(それが何かはまた後日に説明させて欲しい)。買って良かったのだ。
 この私の一連の行為を、まるで己の制御の効かないままにに踊り狂いながら死ぬ中世の奇病の様だ、と思う方も多くいるだろう。しかし、この世の理(ことわり)から離れた場所に異界への扉が位置している以上、それを開けるためには破滅的かつ狂人的な仕草もまた必要な行為になる。
 かくして私が購入した数本のDVD-Rにはとてもいい曲といい映像が沢山入っていた。買って良かったのだ。

YARA - "Las Cuatro Plagas" (Diablada)


OASIS - "Urus La Mejor" (Diablada)

SEMILLA - "Los 7 Pecados Capitales" (Diablada)

 YARAの"Las Cuatro Plagas"のPVを初めて見た時、ボリビアに生まれたかったと私は真剣に考えた。今の日本に足りない物が全部有る。とにかく、国としてギャグレベルが高いのが心から羨ましい。各々が奇抜な仮装をして奇抜なステップを踏みつつ、そこにはその集団を冷笑するどのような残酷な視点も見当たらない。あるのは純粋な喜びのオーラだけだ。今の日本の何処に純粋な喜びのオーラがあるのだろうか。また、"おもしろ映像あるある現象"、「金銭を出して買ったDVDよりも、何故か無料で公開されているYouTubeの映像の方が画質が高い(≒資本主義の超越)」がこの作品集にも起こっていて、Andinoというバンドの"Somos De La Central"という曲では何が起こっているのか分からないレベルで画面が荒れており、目の縁が黒く塗られた仮面を見た私は、「陽射しが強いから伝統的な仮面の上からグラサンを掛けているのだ」と勘違いした。ここまでかっこいい民族を始めて見たと思った。
 OASISやSEMILLAのPVを見ると、着ぐるみを着てのダンスも参加型でなく見世物になっている現状が伺い知れる。そりゃそうだろう。しかし、繰り返しになるが、私はYARAのPVを見た時の衝撃、「参加したい」という渇望を忘れる事ができない。彼等には敵愾心の様なものが微塵もない。それは彼等に「みんな仲良くしないといけない」という思いやりの心があるから、というよりは、「この人に勝っても仕方がない、勝ったところでどうにもならない、上に立つとかそういう問題ではもう無い」、という強烈な説得力を個人個人が有しているからだと思う。その事によって彼等は「牧歌的なのに凄まじい狂騒のポテンシャル」という矛盾をこの世へと召喚させている。
 その様な映像を時々見かける。本来有り得ない筈の事態が易々と起こっている、そういう映像だ。

SOCKEYE (live) - "The Platypus Song"


 自分がヒップホップに魅了された理由も似た様な理由になる。ヒップホップが評価される際のクリシェ、ストリートのリアルが克明に描かれていたり、成り上がったラッパーがでかい車に乗ってたりする点、は私にとってそれほどピンと来ない。それよりも、数多のヒップホップのPVに登場し、音楽に合わせて踊っている労働者めいた身なりの集団が、「まあ、マリファナでも吸いましょうよ!」とこちらに語りかけて来る様な、健全なまでに怠惰を肯定している共同体に見えたという点、これが大きい。例えMCが剥き出しの欲望を以て金や名誉についてラップしていても、音と声質だけ聴けばその音楽自体は完全に居心地の良い泥濘地であり、その共同体の中で時折蔓延るであろう、"仲間内で勝者になりたい"という競争心を腰砕けにする暖かさを有している。そこが本当に好きだ。ヒップホップとは自分にとっては殺伐とした温泉であり、「この境遇から抜け出したい」という焦燥と共にplace to beを肯定している不思議な讃歌だ。
 なので、私がヒップホップだと感じる物は、他者からの助けを声高に要求する安達祐実の「どーした!安達」や、ピコ太郎の「PPAP」やTRFの「桃屋のキムチダンス」等の「この人に勝っても仕方がない」というオーラを言葉と踊りだけで醸し、競争社会の虚しさを白日の下に晒す様な表現が多くなる。私はとにかく心の底から競争が嫌いなのだ。私が友達を定義するなら、それは「この人に勝ったところで仕方が無い」と思わせてくれる様な人物の事であり、私の友人達も私の事をそう思っているだろう。それは確たる信念の元に私が人間関係を形成したのではなく、ただ単に向上心の無い人間としか話が合わなかっただけではあるが。

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 向上心が無い事と矛盾するのかしないのかよく分からないが、私は明らかに自分より収入が高い人々が住んでいるであろうマンション、また企業が入っている高層ビルを見上げるのが好きだ。Xでは「日本のマンションの外観は画一的で実につまらん」的な意見が時おり散見されるが、別にそんな事はなく、各々が独自の個性、機能美と共に高いデザイン性を備えている。「音楽の恩寵とは?」という質問に坂本龍一は「数学と建築とSEXを一体化させることができる」と答えていたが、確かに街には音楽からSEXの要素を抜いた物が立ち並んでおり、その一つ一つがまるで職人が製作したテクノの如きかっこよさを有している。東京都心をふらつく事は貧乏人にとってのレイヴパーティーなのだ。また、この建物の室内で岡村靖幸の「イケナイコトカイ」みたいに、床にバーボンのグラスが転がっていて、まあ普通に羨ましい恋愛してるんだろうなとか考え出すと、自分が若い頃に異常な頻度で聴いていたJ-POP、ACOの「悦びに咲く花」や「4月のヒーロー」がわずかにビルの側面から聴こえてきて、本当に涙が出てくる(一応断っておくが、マンションの外側から見える住民の私物(個人情報)を見て泣くわけでは決してない。ただマンションの外観だけで泣いている)。
 冒頭に貼ったビルの写真、その角の部分が上段の途中から「一度、角を四角く抉り、その後に小さな角を付け足した」様になっているのがわかるだろうか。このビルをぼんやり見ていて、「あっ、これは、仮に落下した際、体への負担を軽減する(一番下まで直に落ちない様にする)為にこういう構造になってるんだ!」と気付いた時、私はまた涙した。そこまでの危険を犯してまで下を見たいという人間の性(さが)が、確固たる機能美によって肯定されている事に。

 「ただとにかく主人公が建物を上がり続ける」だけの小説を探していた時期があった。
 物語が進む事はただ上に登り続ける事だけを意味する。しかしその建物から一度足を踏み外してしまえば、後は下に落ちて死ぬだけだ。そういう、「過去へと戻る事」と「下に落ちて死ぬ事」が同じベクトルを表示する空間内において、物語とは何を指し示しているのかを知りたかった。生活において「高み」を目指す事が異常に賞揚される社会にうんざりしていたからだ。しかし、そんな小説は子供の頃に読んだ「魔界塔士Sa・Ga」のゲームブックくらいしか見つけられなかったし、その小説内にただ高みを目指し続ける人間の心理は書かれていなかった、と思う。もう殆ど憶えて無い。
 なので、X(当時はツイッター)内で"タワマン文学"というフレーズを見つけた時、私はそういう小説群が遂に現れた!と興奮した。ただ快適な檻に入れられ、そのまま高い所に吊るされ揺らされ続ける人々の孤独を描いた小説が列を成して登場した!と息巻いた。だが、数点"#タワマン文学"のタグが付けられた文章を読む限りでは、それらは富裕層の日々の不満や不安を主なテーマとして扱っている、私にはピンとこない物だった。自分の意見でしかないが、主人公が高い所に住んでいたり、高い所が舞台だったりする小説の醍醐味とは「人は高い所から落ちたら死ぬ。金持ちでも貧乏人でも善人でも悪人でも別け隔て無く」、という根源的、物理的な恐怖と絶望感をいかにして物語に憑依させるかだと思う。ドン・デリーロの「コズモポリス」、ユイスマンスの「彼方」、バラードの「ハイ・ライズ」、福本伸行の「賭博黙示録カイジ」etc.etc…
 人は高い所から落ちたら死んでしまう。それでも多くの人は高いビルから身を乗り出して下界を眺めようとする。

 現在、恵比寿に移転しているリキッドルームというクラブは、昔歌舞伎町のビルの(確か)7階にあった。くそでかい音が鳴り響き低音で床がボワンボワンに揺れ、「なるほど、だからリキッドルーム(液体部屋)というのか」と思わせられる狂った異常空間で、若かった頃の自分はそこそこの頻度でそこに通っていたのだが、正直そこでどんな音楽が流れていたのかは何一つ思い出せない。ただ、印象に残り続ける風景が一つある。それはトイレを待っている際、廊下に面した窓から見下す事ができた、ビルの横に面している広場に集まっている人々の集団だ。それを見ながら自分は確実に特権意識を感じていた。酒でベロベロに酩酊しながら「おらっち(方言)はここで最先端のテクノ聴いてんのに、そっちは聴けなくて可哀想だな!」と彼等を嘲笑していた。だが、不思議な事に、それと同時に私は彼等に一体感も何故だか感じていたのだ。広場で缶チューハイを酌み交わす男女を睥睨しながら、私の頭の中では電気グルーヴの「レアクティオーン」の「東京の若者のすべてがここに集まっています」というフレーズが鳴り響いていた。俺は、彼等と共に東京の若者のすべての一員なのだという、言葉にするなら「はかなさ」、小便を我慢している自分にそれが切々と迫ってきた。それは宇宙から地球を俯瞰する様な感覚で、狭い足場を譲り合う様に踊りながら肩を並べている人々に感じる物とは完全に別種のものだった。そこで鳴っていた音楽は何一つ憶えていない。

 ある集団の中に飛び込み、そこで何かを楽しんでいる時、おそらく余りに他者との距離が近すぎるが故に、そこには一体感を感じている余裕など無いのだろうという気がする。そこにあるのは個人個人の孤独な認識だけであり、集団が発するエネルギーの中に巻き込まれながら、後々思い出せる事など殆ど何も無いのだろう。そこで一体感を感じるのなら、多分自分はその集団の外側から彼等を俯瞰しているだけなのだ。
 そんな気がする。

 東京に出てきて友人もそれなりに出来たが、若かった彼等彼女等ももちろん俺と共に歳をとった。昔、友人達と何を話し、何を語り合ったのか。私はほぼ何も憶えていない。相手もそんなもんだろう。只々東京のおっさんおばさんの一員として街をふらつき、何処かで偶然会ったら、後々思い出せるわけも無い様な話でもするんだろう。
 私は別にそれでいいんだと思う。

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