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「映え」が偏重されすぎた世界で

 昔の「マネーの虎」に似たコンテンツ、「令和の虎」を主宰していた男性が亡くなったという。僕はいずれのコンテンツもよく知らないので、有名な方が亡くなったのか、という程度の認識だった。ただ、強いて言えば、YouTubeやXに時たま浮上してくるショート動画で、「主宰」が出演者を怒鳴り散らす様子がエンタメとして消費される仕組みは、少なくとも僕の趣味には合わなさそうだった。
 では、なぜ「主宰」の死を俎上に上げるかというと、Xのタイムラインに主宰を偲ぶ投稿が大量発生したからだ。もっとも、「主宰」の死を伝えるネットニュースのリンクを踏んでしまったものだから、Xのアルゴリズムが気を利かせて、それ関連の投稿を僕にサジェストしてくれたのだろう。
 「主宰」が経営する法人が同氏の死去を発表すると、「主宰」と交流があった人たちが、驚くことに概ね1時間以内に、同氏とのツーショットを掲げながら、長文で死を偲ぶ投稿をした。そんなに急いで言語化しなくても宜しかろうに、と思う一方で、急速に発達したネット社会のある種の冷たさを感じ取った。
 ところで、そんなSNSの冷たさについて考えていたら、プライバシーがなくなった2050年代のフランスを奇妙に表現した、リリア・アセンヌ(斉藤可津子訳)『透明都市』のある文章を連想した。

「父が死んだとき、もう立ち直れないと思った。慰められるのは嫌だった。痛みを実感することで、父に対するわたしの愛情に敬意を表したかった。昔から大きくて強い存在だった父が、ふいに冷たく弱々しくなった。父の手をとると、だらりと落ちた。いまの時代、親が亡くなると、痛みよりも、まずは報告。近親者がすかさず故人の写真つきメッセージを投稿して悲しみを表明する。友人たちがそれを引き継ぐ。しんみりと悲しみを忍ぶ前に、意思表示し、語らなければならない」

リリア・アセンヌ(斉藤可津子訳)『透明都市』111頁

 父の死に関する叙述だが、別に置き換えて読んでも意味は通じよう。「いまの時代、親が亡くなると、痛みよりも、まずは報告」。「しんみりと悲しみを忍ぶ前に、意思表示し、語らなければならない」。とりわけこの2文は、強烈な示唆を含むもののように思える。
 リリア・アセンヌは、その上でこう続ける。「世界とは小説的で、本は真実だ。それで、わたしはフィクションが好きなのかもしれない。フィクションは決して嘘をつかないから」。見栄えの重視が偏重された世界では、むしろ現実よりもフィクション(本)の方が信頼できるということか。
 そういえば、小川洋子はどこかの講演で、言葉は、それを表現してしまった瞬間に嘘になってしまう、というようなことを語っていた。「悲しい」という表現をひとつとっても、「悲しさ」の色彩は多様であって、わたしが思う悲しさと、あなたが思う悲しさを完全に一致させることは、どれほど緻密に表現を練ったとしてもあり得ない。言葉は、厄介だ。
 だからこそ、僕たちは誰かの死に触れたとき、まずは語るのをやめて、「しんみりと悲しみを忍ぶ」。それが死者に対する誠実さでもあると、信じているから。翻って、(「主宰」の死に限らず)最近の有名人の死を見ていると、第一報の後、関係者やファンが即座に写真付きのエモーショナルな投稿をしている様が目につく。そうした投稿は、どこか他人事めいていて、冷たくて、熱がない。もう少し踏み込んでいうならば、死者よりも、「悲しんでいる自分」にスポットライトが当てられているような違和感がある。
 余白の美、という言葉がある。何でもかんでもアウトプットを試みるのではなくて、いったん立ち止まって、自分の感情と対話することも大切なのではないか。然もなくば、現実で生きているのか、あるいはインターネットの中で生きているのか、わからなくなってしまうだろう。せっかく地球人として生まれてきたのだから、もっと自分の感情と向き合う時間を、情緒を、大切にしたい。

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