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東京信仰と自我の消失

春から労働者になってから、自宅ではほとんど酒を飲んでいない。けれど、なんだか今夜は猛烈に飲みたい気分になって、9%の角ハイを飲みながら、音楽を聴いている。最高に心地が良い。ところで、角ハイはどうして角ハイという名前なのだろうか。少し気になるけれど、今夜は気にしないことにする。

ぼくが自宅で夜に酒を飲むとき、いつだって音楽がかたわらにある。学生の頃は、部活の友達やゼミの友人と、音楽のリンクをぶら下げた雑文をLINEで送り合いながら酔っ払っていた。さすがに今はそういうわけにもいかない。それでも、文字を操りたい気分だったから、ちょっくらキーボードを叩いてみようと思う。

まず聴いたのは、ワールズエンド・スーパーノヴァ。くるりを聴くと、京都を連想する。初めて京都を訪れたのは、小学六年生の修学旅行だった。旅館でひとしきり枕を投げ終えると、僕らは窓を開けて外の風に耳を澄ませた。静謐な暗闇に溶け込む虫の声が聞こえた。当たり前の日常なのに、なぜだか情緒的な気持ちになった。友人の存在が影響したのかもしれないし、夕食時に鑑賞した芸妓の舞の余韻が心を揺るがせたのかもしれない。あれから数年が経ち、僕は京都の隣に位置する大学に進学した。ときどき夕刻に京都に赴き、人気のない路地を歩いた。ひっそりと佇む飴屋や漬物屋の暮らしを想う時、そこにある確かな「生」を実感した。

ダダダダンダダダンダ。次に聴いたのはSwanky Street。きっと間違いだらけの僕の人生だけど、自分の抱く正しさは信じたい。盆休みに地元に赴き、中学来の旧友と再会した。あの頃、優しかった奴は優しいままで、女の子を取っ替え引っ替えしていた奴は相変わらず破天荒な恋模様を描いていて、妙に安心した。ただ、当時は割に思慮深いと思っていた女の子が、マッチングアプリをいくつも操る「港区女子」と化していたのはショックだった。「XX歳までに結婚しないとやばい」「慶應卒の経営者はキープ」「東京以外に住むなんて考えられない」。芯のあった彼女から放たれる東京信仰のステレオタイプは無味乾燥で、ちょっぴり寂しかった。

そういえば以前、こんなnoteを書いた。

都内の高級料理店は成金で溢れていると聞く。その事実は、SNS上に散見される、高級料理店の店内にいる「私」に焦点を当てて撮影された写真が静かに物語っている。彼らにとっては、料理が美味しいかまずいかという事実よりも、高額な料理を提供している店にいま「私」が存在しているという事実と、その事実を大衆に知らしめるという行為の方が重要なのだろう。いつからこんな乾いた時代になってしまったのか。

パパ活女子と、成金野郎と、大塚家具にいたある少女と

先の話に重ねると、難関大学を卒業して、経済的に豊かで、顔もカッコ良い彼のとなりにいる「私」。確かに凄そうに見えるけれど、はて、「私」とはどんな人なのだろう。融解する自我と錯乱する虚像。あまりに空虚ではないか。人生を相応に色彩豊かなものとするためには、オリジナルな思想や能力に立脚する自我を持つことが不可欠だろう。

小沢健二はアルペジオで「消費する僕」と「消費される僕」を歌ったが、最近は後者の視点を欠いた言説が氾濫している。東京信仰にしても、港区女子にしても、自我が消費されている感覚には敏感であるべきだろう。蝕まれた果ての虚空に涙する前に。

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