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ドリトル先生が教えてくれる、「優しさ」

記憶の中では、ドリトル先生シリーズは私が最初にハマった本です。
いい大人となった今だからこそ、よりドリトル先生の紳士な振る舞いにしびれ、周りの「物言う」動物たちの豊かな感情に笑い、トミー少年のまっすぐさに胸打たれます。

しかしあとがきでも書かれていますが、この本には人種差別的な表現が含まれており、動物に対して広く愛情を注ぐドリトル先生ですが作品の中に登場するアフリカやその他の地域の先住民族に対して、偏見を持っているかのような言動が見受けられます。
特に岩波少年文庫版は、井伏鱒二氏による名訳と名高いものですが、今日では明確な差別用語となる言葉が登場します。

物語が書かれたのは第1次世界大戦のすぐあと、物語の中の時代は1840年ごろ。時代背景的にも、「白人が異民族を正しく教化する」という考え方が正義であったのでしょう。物語の中の表現からも、著者のヒュー・ロフティング氏にそうした意識があったのは否めません。

そのような表現がみられるために、アメリカや日本の出版社で何が起きたかはWikipediaなどにも詳しいのでここでは省きます。

今回、改めて私は手元にあったドリトル先生シリーズをいくつか読み直し、人種差別問題が世界中で議論される中でこの作品は、果たして今の子供たちにも広く薦められる本なのだろうかと考えてみました。


私が少年時代に大好きだったドリトル先生は、時代遅れの恥ずべきレイシストなのでしょうか?


ドリトル先生は、物語を通して世界中を(時には月にまで!)飛び回ります。

その中で各地の動物や現地の人たちと交流を持つようになるのですが、ドリトル先生は一貫して動物には優しいのですが、人間に対してはやや冷たい態度をとりがちです。
そしてアフリカやその他地域の、当時のいわゆる「未開の地」に住む人々に対して白人優位の意識がちらりと見え隠れするような言動も確かにあります。

ドリトル先生は、もともと人間のお医者さんでした。

自分の飼っていたオウムから動物にも言葉を教わり、もともとの動物好きもあったために人間相手から動物相手の医者に転身するのですが、動物の言葉がわかる、というのは突飛な発想であり、ドリトル先生は変人扱いされて次第に人間嫌いになっていってしまいます。

ここでの人間嫌いとは、当時ドリトル先生の周辺にいたイギリス人全般です。ちらほらドリトル先生を尊敬し、心から慕う人も登場するのですが社会全体からはドリトル先生はインチキな医者、でたらめな学者と呼ばれ、好奇の対象としてすら扱われてしまいます。

そんなドリトル先生が、非常に敬意を払い、友人として親愛の情を抱く人物が二人います。

一人はネイティブ・アメリカンの血をひく在野の博物学者、ロング・アロー。
もう一人は月の世界でただひとりの人間である、オーソ・ブラッジ。

この二人に共通するのは、正規の教育を受けていないにもかかわらず、鋭い観察眼と知恵によってさまざまな知識を蓄え、その探求心のままに物事についての研究を徹底したことです。
イギリスの大学で博士号を取得しているドリトル先生も舌を巻くほどの彼らの姿勢は、まさに学者、博物学者の鑑といえるものでした。

ドリトル先生が最大限の敬意を払うこの二人は、白人種の人間ではありません。
しかしドリトル先生はこの二人の人種などまったく気にすることなく、その学者として、人間としての気質に惹かれているのです。

うがった見方をすれば、「非白人なのにいっぱい勉強してえらい」などという考えを持っていたとも言えます。
でもドリトル先生がこの二人について語るときに、そんな考えをにおわせる言葉は全く見当たらないのです。むしろ劣等感を抱いているような、そんな印象を抱かせるほどに褒めちぎっているのです。

ドリトル先生は、礼儀正しく公平で、人を尊重して努力と知識に敬意を払う「紳士」です。
それはもう、まぎれもない事実です。
ですがそのような人にすら、本人の潜在意識のなかに人種差別を潜ませる時代の情勢・教育というのは、空恐ろしいものがあります。

イギリス人の少年助手トミーと同様に、助手となって先生を助けるバンポという青年。ドリトル先生とのやり取りから、バンポがロンドンの大学生となって成長し、人間のように動物を理解するようになってドリトル先生は、完全にこのアフリカ出身の青年を、人種にとらわれず一人の人間として見ていることがわかります。

刷り込まれた意識を塗りかえ、人種ではなくその人自身を見るという姿勢をドリトル先生が持つようになったその理由は、動物の世界という「未知の世界」に親しくなったことではないでしょうか。

人種差別とは、一般に「知らない」ということから始まるといわれています。
見た目、文化、生活習慣など、慣れないものに対したときの恐怖ともいえる感情。自分たちのほうがより優れているという誤った認識。
こういった意識から差別は始まっています。

もともと好奇心旺盛で動物好きだったドリトル先生が動物の言葉を知ったときは、ワクワクする少年そのものでした。
ただ自分の探求心の赴くままに勉強を始めたドリトル先生は、そのうちに動物のことを知らないにも関わらず「言葉を持たない」「人間に仕えるもの」と決めつける「権威ある」人たち、犬や馬など家畜の「血統」に執着する人たちを嫌悪し、辟易するようになります。

たしかに動物と人間は違う。文化、思想、生活習慣、人種どころではなく、そもそも全く違う生き物なのです。
そうした動物たちに、「人間らしい」気持ちや生き方があると知ったドリトル先生だからこそ、既存の知識や権威にしがみつき、未知のものや生え抜きの博物学者を頭から否定する人たちを嫌って自分の世界にこもるようになっていったのです。

ドリトル先生は確かに当時の白人優性思想を持っていたと思います。
しかし、異なる世界を知り、それを否定する人たちに背を向けることを選んだ人でもある。

幼いころの私が、また多くの同じような方が、ドリトル先生を大好きになった理由。
それは広い見識を背景として持つに至った「優しさ」だと思います。
異なる文化を持っていてもそれを尊重し、一つの「命あるもの」としてその個性を見てくれるその「優しさ」に、多くの読者が心を揺さぶられたのではないでしょうか。


現在でも理不尽な人種差別は根絶されていません。このような中で私たちの潜在意識にももしかしたら、後世では恥ずべきとされる意識が他にも存在するかもしれないと考えると、人間の歩みはその生涯に比べてなんと遅いのでしょう。

好奇心を持って未知のものに触れるというのは、たいへんに勇気がいることです。
ですが現代の多様性を尊重しようとする風潮は、もしかしたら我々がちょうど新しい一歩を踏み出そうとしている証なのかもしれません。
ドリトル先生のように生来の探求心を万人が持つことはできませんが、でもその姿勢が人としての優しさを作り出してくれるということを決して忘れてはならないと思います。


ドリトル先生シリーズは今でも子供たちに勧められる作品なのでしょうか。

正直、私は迷ってしまいます。私が初めて読んだときは、そもそも差別用語として知らなかったのもあり、特に差し障りはありませんでしたが、知らずに言葉を使ってしまうと良くない影響があるかもしれません。
でも、ドリトル先生の人柄にはぜひ触れてほしい。そう思います。
トミーの活躍、動物たちのユーモア、どれも魅力あふれるものばかりです。

現在では新約版も出版されており、私も一読しましたがずいぶん苦心されて差別的意識が排除されるつくりになっていました。
ですがこのシリーズにおける差別問題は、むしろ避けてはならない問題であると思います。
小学生よりも中学生または高校生に読んでほしい。親や信頼できる指導者が身近にいる場合に読んでもらえれば、この上なく楽しい、また考えさせてくれる物語となるはずです。

最後に、この記事を書くために久しぶりに旧約版を数巻読み直しましたが、まさしく至福のひと時でありました。
長きにわたって受け継がれてほしい名作です。

#読書の秋2020

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