お母さんだと思って話しかけていたのは
家の前のコニファーの木にキジバトが巣を作っている。
枝を少しだけ持ち上げて「おはよう。調子はどお?」と話しかけるのが最近の日課だ。
1年前、大きくなりすぎたコニファーの幹や枝を半分ほどの高さに伐採した。根本から伸びた2本の幹は、ずんぐり不恰好な穴になってしまったけど、キジバトの新居にちょうどよかったようだ。
子どもの頃の私はたまごハンターだった。
学研図鑑『飼育と観察』は、かがり糸が緩むほどめくって、たまご情報を集めていた。カマキリやメダカ、カナヘビ、イモリ、インコ……、たまごが載っているページはもれなくチェックして、いつか出会うチャンスを思った。
たまご見たさに、小学校では飼育委員に手を挙げた。普段の係決めでは遠慮して残りものになりがちだったのに、初めて勢いよく手があがった。
自分のとった行動にドキドキしたのを覚えている。
鳥が飛び交う大きな禽舎に入ってみたかったのだ。
「好き」は自分でも驚くような行動に現れて、後からドキドキした。
図鑑のなかで特に心惹かれたのはハトのたまご。巣の中の2つの小さなたまごと、親鳥がピジョンミルクをひなに与えるイラストを何度も繰り返しみていた。
さすがに今はもう、たまごハンターはやめたが、キジバトの巣を見つけてから、忘れていたワクワクが蘇ってきた。やっぱりたまごが見たい。
巣は私の目線より少し高い位置にあって、下から親鳥の羽毛が透けて見えるくらい華奢な作りだ。残念ながらたまごは枝に隠れていて見えない。
毎朝そぅっと手前の枝をずらして1メートル先から観察する。葉に隠れて親鳥が巣に座っている。雨の日も風の日もとても寒い日も。
もう一歩近づくと親鳥が緊張した顔になるからやめた。伸ばした首にたまごを守ろうとする覚悟みたいなものを感じる。
私は子供時代、一人で遊ぶのが好きで、思いつくままに動物や虫や植物に話しかけてはニコニコしていた。ある時、同級生に一人で笑っているのを指摘されて恥ずかしくなったが、その後は誰もいないところで一人言を思う存分楽しんでいた。
「幸せな子どもだったなぁ」
キジバトに話しかけながら、大好きな自然に囲まれていたことに胸がいっぱいになった。
言葉を使わない相手に話しかけるというのは、自己満足だ。
「がんばってるね。早く生まれてくるといいね」
「大丈夫?お腹空いてないか?」
「寒くないか?」
キジバトはつがいで抱卵するらしい。
いつも同じ鳥だと思っていたが、いつの間にか交代しているらしい。
お母さんと思って話しかけてたキジバトは、どうやらお父さんのようだ。
「なんだ言ってよ」
「お父さんだったの?」
もちろん応えてはくれない。
言葉を持たない相手との対話は、勝手な思い込みだ。ただの想像。
「あ!え? もう生まれたの?」
「おー!おめでとう!」
言葉が通じない相手との対話は、勝手な一人芝居だ。
好きに話を展開できるし、失敗もない。一人芝居が楽しくなると、独りよがりな妄想で物語が進んでいく。相手のことを考えているようで、まるで考えていない。でも誰も傷つけない楽しいあそび。
抱卵期間は15日程度。まだ1週間もある。
生まれるはずがないのに、妄想のたまごがうまれている。
キジバトが体勢を変えるのに羽を膨らませていたのを、ひなを抱えていると勘違いした。お気楽な妄想は、ひなの姿さえ見える気になる。
インターネットで調べたキジバトのひなは、グレーのしわしわの体に大きな黒いくちばし、黄色っぽい毛がまばらで可愛くなかった。
40年前の図鑑のひなの姿はほとんどくちばしだけしか描かれてなかったから、ひよこのように可愛い姿を想像していた。
思い込みから離れて調べてみるというのは、現実と向き合うってこと。生まれたひなを初めてみたら、可愛いと思うだろうか。いや、多分可愛い。
キジバトとの密かな対話で、私は私らしい時間を過ごしている。
言葉を返さない相手との対話は、素の自分だ。
妄想と現実の間を縦横無尽に視点を変えて見られれば、新しい自分に出会えるかもしれない。
明日見る親鳥は、お父さんだろうかお母さんだろうか。
私のあいさつに一言応えてくれれば、わかるんだけどな。
「ボーボ・ポッポポー」
は、お父さん。
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