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経営者とは何なのか?個人的かつ偏った経営者論

理想的な世界を求める者

知り合いに会社を立ち上げたいという男性がいます。彼は現在Webディレクターとして働いているが、数年後には会社を立ち上げたいとのことです。

話を聞くと彼の理想は素晴らしいと感じました。公正な評価に基づく民主的なパワハラや強者による搾取がない世界を創るという。過去の経験から会社員として理不尽なこと、屈辱的なことがあった、だからそのようなことの無い理想的な世界を目指しているとのだ、いう話をしました。

反対する理由はない。そんな世界は僕も行きたいと思います。本当にその世界が実現するのなら・・・と少し複雑な感情を抱えながらですが。

僕は一応個人事業主として生きることを目指し、これからスタートする人間ですので、会社というものは理不尽だし、それを否定したいという気持ちは痛いほどわかります。だけど十年以上会社という組織の中で生きてきた人間として、また経理として経営者にほど近い立場として会社というものを考えてきた人間として、会社という組織はどうしても理不尽が生まれるし、経営者と従業員の意識に温度差があるということも理解しています。彼がその理想を持ちながら会社を経営し、現実の荒波に揉まれながら理想を失わずに前に進むことができればという祈りを込めて、経営者という存在について考えてみました。

経営者と従業員

個人事業主や、夫婦や家族のみでの商店では当てはまらないのですが、家計と一心同体ではない他人を雇用し、業務上の指揮命令下に置く場合、経営者とは等身大の個人ではないと考えます。

つまり、従業員に規律を求め管理する立場であり、会社に対する責任(例え株主が自身であったとしても、別に株主がいたとしても同じです)を背負う立場である以上、経営者自身が規律を破り、こんな人間に管理されたくないと感じられてしまった時点で従業員の心は離れていってしまいます。

確かに、サラリーという名の賃金を支払う会社に対し従業員は契約として労働力の提供を行わなければならないし、その成果が出なければ改善の為の指導を受けなければならないですが、心まで従属している訳ではありません。納得できない指導であっても、表面上は受け入れ経営者に指導された通りにするのかもしれません。その通りにすれば従業員にとってはいう通りにしたのだから文句を言われる必要もなくなるし、成果が出ても出なくてもサラリーは発生するのですから。

その一方で経営者は従業員が自分で考え、作業効率を上げることを要望します。上記のように指導をしたにも関わらず成果が上がらない時は何も言わずに経営者の指示通りに動いた従業員に対して不満を持つでしょう。そしてそんな従業員を評価することもなく、その結果従業員が不満を持ち辞めてしまうかもしれません。

だからと言って、規律を破ったり、自分の都合のみで動く経営者の元で自身で考えて動く従業員というのは、基本的に反骨精神の持ち主であったり、業務経験を蓄積し将来の自分の為に動く人間のみだと思っています。僕自身がそういうタイプの人間でしたし、結果として経験値を積んだ上で個人事業主になること選んだのですから。

理想的な経営者について考える

では、冒頭の彼の為にどのような経営者であれば理想的なのかということを考えてみましょう。まず、自分自身が規律を守ることでしょう。会社の就業規則、職務規定など、自分は例外であると考えないことです。それぞれの職務にルールはあるでしょうけど、全体としてのルールですね。もちろん経営者にしかできない職務もあります。他社の社長との交流や、業界での会合、そこは交際費をきっちり使っても大丈夫だと思います。会社における成果を出す為の必要経費なんですから。役員報酬も最終的な会社の成果に対する責任を負う身としては従業員と差があってもいいと考えています。本当に最後まで会社のことを考え続けなければいけないのは経営者なのですから。

また、従業員の仕事に対し理解をし、少なくとも理解を示す努力が必要だと考えます。例えば僕はデザインをしたり、商品を実際に生産するという意味では何もできませんが、彼らが何をしているのか、何を求めているのか、それを汲み取らなくては行けないと考えます。どのような指示があればいいのか、設備に不満はないか、人員が不足していたり過剰であったりしないか。それはその立場の人間でなければ真実は見えないのです。ですから適時にヒヤリングを行い、無理な要求であれば何故難しいかをきちんと説明し、従業員に対して真摯に向かい合うことこそが経営者に必要な素養だと考えます。

さらなる理想、マネジメントとリーダーシップ

しかし、それだけではまだ足りない。何故従業員である彼らが経営者の指示に従ってくれるのか、それを考える必要があります。

従業員が、この人について行けば大丈夫だ、この経営者のマネジメントに従ってやれば成果が出る。だから自分の担当している業務において最大のパフォーマンスを発揮しよう。従業員にそう思って貰えれば少なくともその業務に関してはより効果的になるように考え、提案し、承認を受け、実行される。そう僕は考えます。その為に経営者は従業員に信じて貰う必要があります。それがドラッガーでいうリーダーシップに当たると考えます。そして従業員に信じて貰う為に経営者は常人を越える努力をする必要があります。何故常人を越える努力が必要なのか。従業員と同じレベルの努力であれば「この程度の努力なら自分もしている、なのに権限や給与に格差があるではないか。」と考える従業員が出てくるからです。特に仕事に対する意識が高く、高パフォーマンスで業務を遂行する従業員であればその傾向は強いのかもしれません。だから、彼らに認めさせる為にはそれ以上の努力が必要になると考えます。

あるいは、努力でなくても圧倒的なスキルやセンスを発揮する経営者もいるかもしれません。その場合は畏怖の念という尊敬に似た形で従業員の心を揺さぶると思います。ただ、圧倒的なスキルやセンスは、何故それが身についているのか感じ取れないし、理解されないかもしれません。つまり経営者の心は伝わらない。それでも文句は言えないし、受けた指示について効果を信じることが出来るから問題なく業務は進むと思いますが、それはリーダーシップと呼ぶには足りないものだと感じます。技術への畏怖や憧れはあっても経営者自身に共感している訳でも、信じている訳でもないと感じてしまいます。

経営者とは象徴である

理想の経営者と呼ぶには、従業人にとって憧れではなく共感、畏怖ではなく尊敬の念を抱く存在で無くてはならないと思います。と、同時にこの人についていけば大丈夫であるという安心感。これらの要素が必要であると感じています。

とても難しいことを言います。会社にとって進むべき道、理想の姿を示し従業員と共感し、一方で現実に起こりうるトラブルや解決すべき問題点に即した対応を試み、会社の中で誰よりも真摯に業務に向き合い、従業員に安心感を与える存在が理想的な経営者と呼ぶことが出来ると考えています。

しかし、現実にそのような人間は少ないでしょう。ゼロとは言いません、僕自身は出会ったことが無いですし、物語の中以外で聞いたこともありませんが、人間が辿り着くことが出来る範囲内ではあると思いますので、少ないながらも理想の経営者は存在すると信じています。

しかし、そのような理想の人間でなくても、目指すことは出来ますし、理想的であろうと振る舞うことは出来るはずです。真実の個としての自身が弱くても、実際は判断を誤ることがあっても、スキルやセンスが足りなくても、心の持ち様で努力することは出来るはずです。判断を誤ったという結果に対して原因を追究して学び、スキルの向上を目指し、自身にセンスがなくてもセンスのある人間を招き、リーダーシップを持ち、マネジメントを行う。

そんな心構えを持った人間はもはや普通の人間ではないと考えます。だから僕はこう思います。『経営者とは象徴である』と。

きっと、このような精神を持った経営者であれば、冒頭の彼の望む理想の世界を創造することが出来ると思います。

事業を成功させ、お金を稼ぎ、株主や従業員に分配をし、取引先とWIN WINの関係を構築するする。会社にとって必要な経営者とはこれだけで良いと感じていますが、これだけでは理不尽は生まれ格差は存在するでしょう。願わくば、彼がそれ以上の精神を持った、少なくとも理想の姿を求める経営者になることを願い、この文を締めさせて頂きたいと思います。

最後まで目を通して頂いた方がいらっしゃましたら、このような個人的で勝手な論を読んで頂き、ありがとうございました。少しでもお役に立てる部分があれば嬉しく感じます。

それではまた。

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