生きる意味

近頃note街へ繰り出す時間が減っている。
見ようとは思うのだがどうやらからだがついていかない。
休日は寝てしまうし(時間ができると昼寝)、平日はやっぱり時間がない。
唯一の時間は通勤時間だから立っている間はこうして文字をポツポツ打つのだが…。


往復電車に乗っているだけで2時間あるというのは長い。

座ってnoteに訪れてもうっかり眠ってしまう。

体調は天候にも左右されて。
昨年、一過性の意識障害で救急車で運ばれこの時期は疲労が溜まる。気を付けないとならない。

一過性の意識障害とは、突然目の前が暗くなって

倒れるなぁ

と思ったまま一瞬意識が無くなる訳なんだけど、死ぬときはこんな風に意識が無くなるのじゃないかと思う。

自分の脳みそで意識の無くなる直前までは思考できるのだなと後で思い返す。
意識の無くなった私はどうやら目を開いたまま倒れていたらしく、そりゃ周囲の人も驚くわね。自分を違うとこから見てたとしても驚くだろう。

その時

大丈夫ですか?

と声をかけられたのはうっすらと記憶にある。そう思っているけれど、どうやら最初は気がついてないらしい。何度も言ったらしいから。

でも倒れる瞬間、熱いアスファルトに横たわった感覚はある。

あー地面に横たわったりしちゃ汚いよー

と思ってた。はすな先生いわく、

一過性の意識障害とは、神様を意識してない、人間なんて神様の采配でいつでも息を止められるんだよ

と怒られたようだ。

そうだろうなと思う。
多分自分のすべきことを何もしてないし、気がつこうとも意識しないから意識障害を起こしたのだろう。
自分のしないとならないことと、自分の欲を優先させるのは違うんだろう。

生まれたこと生きることに意味なんてないんだ

そんな風に思う人もいるだろうが私はあると思っているから

人生を紡ぐなかで根底に生きる意味をいつも感じて行動していくのが人生の到達点に近づけるのではないかと思っている。

しかし自分の生きる意味を見つけるあるいは意識することが出来るのは人生の半ばに差し掛かってからなのではないかと思う。
本当は早く気がついて行動出来るなら良いのだろうけれどそれを阻むのが我欲なのだと思う。

欲から人が離れられるのは難しいが
これは我欲か違うかと意識できればそれぞれの人生の本質が見えてくるのではないか。

我欲は感情で動かされているもの。感情から離れること、それが自分のすることを見つける時に必要なのではないか。

一過性の意識障害、もう二度と起こしたくない。

自分のするべきこと。なんだろうと考えるとやっぱり誰でも同じだが誰かの役に立つことではないだろうか。

誰かにとって必要な存在になる。そこに少しでも近づいて行けたならより良く生きることができるのではないだろうか。

まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!